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絶望と希望の絶妙なバランス

想像ができるようになってしまった。

その人のこれまでの背景、なぜそのような行動をとったのか。

職業病と言ったらその通り。「ある困難な状況は、『個人の責任』ではなく、その人とその人を取り巻く環境の相互作用の中にある。」
その「メガネ」をとおして物事を見るのがわたしにとって今やデフォルト。

ニュースを見て、自然に想像する。被害者は、加害者は、これまでどんな人生を歩んできたんだろう。この瞬間、何を思っていたんだろう。

ワイドショーをみる。「個人」をひたすら責めまくるコメンテーターの言葉に悲しくなる。そして、さらにそのコメンテーター自身の人生を考える。その人には、その人の背景がある。

SNSを見る。「個人」を責める言葉が飛び交う。投げられた人、投げた人の背景を自然に想像する。自分がそういう言葉を投げられた時は、一瞬怒りが湧き、でも投げた人の背景を考える。投げた人を責めたところで何が残るんだろう、と考える。

「誰かのせい」で終わらせられた時はこんなにしんどくなかった。

でも「誰かのせい」にしても、何も解決しないことがわかってしまった。そして、分断が起こっていることを「誰かのせい」にすることが、新たな分断をつくることがわかってしまった。それは、自分が目指していることとは異なること。

と、頭で分かりながらもすぐ「誰かのせい」にしたくなったりする。

そうやって、容易く絶望する。

***

けれど、「今日の天使」に会うとたちまちまた元気になる。

中島らものなんかの本に、「今日の天使」というのがあって、わたしは絶望している時にはだいたい「今日の天使」が現れる。
それは、街中でよくわからないこと言ってる子どもだったり、お店のおせっかいなおばちゃんだったり、居酒屋のよっぱらいのおじちゃんだったりする。(たしからもさんの本だと焼き芋屋さん?だったかな?)

その姿は美しい。
「人間っていいな」と思う。
今日も家で絶望してたけど、外に出たら「今日の天使」に会えた。街にでるの大事。

あとは、人間がつくった美しいものに触れた時にも元気になる。
それは音楽だったり、事業だったり、ことばたったり、スポーツだったり(特にフィギュアスケートは本当に美しい)、研究だったり、生き様だったり、人間の多様な表現。
泥臭く葛藤していることそのものが描かれている表現がわたしは好き。あとは、偽りのないまっすぐな表現には憧れる。いまこの瞬間に全身全霊を注ぐ、そんな表現。
表面上のものには興味を持てない。絶望と希望。どちらかというと絶望ばかりでちょっとした希望がある感じ。というか、絶望しきった先になにかある感じ。
(音楽だとeastern youth、小説は遠藤周作など、フィギュアスケートだと宇野昌磨選手)

心から美しい、と思う。

***

この直感的な「美しさ」は自分にとってものすごく大切な判断軸。美しいか、美しくないか。美しくないことをやることは自分にとって死にたくなるほど辛い。

きれいなものよりも泥臭い方が美しい。
正直で、まっすぐで、だからこそ葛藤して、でも腹くくって、そういう生き様はかっこよくて美しいと思ってしまう。
そういうもののために今日も過ごしてる。

#日記 #雑記

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