約束 (エッセイ)
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文章を書くことに理由はいらない。でも書き始めるきっかけくらい、あったっていいのかもしれない。たとえばこんなのはどうだろう。ある美しい夕暮れ時に、妖精のような美女が目の前に現れて、こんな風に語りかけてきたとしたら……。
「あなた、本を書いてみてはどう?」
1
2007年12月のあの日、私はガーナのコクロビテにあるビーチサイドのバーにいた。2年を目処に始めた旅も、残すところあと半年ほどになり、帰国後の身の振り方がいよいよ気になりだした頃だった。小さな漁村の浜辺には、昼下がりの穏やかな風が吹いていた。私はカウンター席の角に座って、ブログを書いていたのか、本を読んでいたのか、どちらだったかは覚えていない。ただ、二人が声をかけてきたときのことは、今でもはっきりと思い出すことができる。
私が日本人だと答えると、金髪の女性が目を輝かせて「やっぱりね、私が言った通りじゃない」と、隣にいたアジア系の男性に英語で言った。彼女は当時25歳のイギリス人で、名前をヘレンといった。ボーイフレンドの方は、彼女より2つ年上で、私と同い年のケンタロウ。二人は日本で知り合い、ボランティアと旅行の目的で西アフリカに来ていた。話し始めて1分もしないうちに、この二人とは長い付き合いになる予感がした。不思議なものだ。それまでの私は(今でもそうだけど)、イギリス人が最も苦手だったのだから。それに金髪のガールフレンドがいるような欧米慣れした日本の男は、たいてい、私のようなアジアの女に親しく話しかけてきたりはしない。
ヘレンの英語は聞き取り易かった。イギリス訛りが抑えられていて、落ち着きのある話し方をした。言葉が通じるかどうかは、聞き手に対するちょっとした配慮があるかどうかの問題で、彼女にはその心得があったのだろう。ケンタロウの英語もゆったりしていた。流暢に話せるからといって、決して早口でまくしたてたりはしない。発音とリズムが安定していて、イディオムの使い方にこなれた感じがあった。お互いの旅程を大まかに語り合ったあと、ヘレンは、それがあたかも自然な流れであるかのように本の話を始めた。
旅をするようになってから気がついたことの一つに、旅と読書の親和性の高さがあった。特に欧米人の旅行者との間にはよく、書籍の話題が持ち上がった。古本を交換し合うことも、旅のささやかなイベントの一つだった。手垢で汚れたペーパーバックが、若いバックパッカーたちの間を挨拶代わりのように循環していた。旅人たちは長距離列車の窓辺に座って、またはビーチサイドのハンモックに揺られながら、あるいは安宿のベッドに横たわったまま、黙々とページを繰っていた。他にやることが何もないという、この上ない贅沢をかみしめながら。
もちろん(というべきだろう)、ヘレンはハルキ・ムラカミの本を読んでいてどの作品が好きかと訊いてきた。やれやれ。ひと気のない午後のビーチバーで、知り合ったばかりの金髪の女の子とハルキ・ムラカミについて語り合うことになるなんて。私は少し考えてから、普段から用意している答えとはあえて違う作品を2つばかり口にしてみた。なぜなら、見たところ彼女に対しては、わざわざ誰もが知っているベストセラー作品を挙げて、定型通りの感想を言い合い、会話を維持する必要なんてなさそうだったから。
「あっ、私も!」
彼女の顔が、パッと明るくなった。それからヘレンは、彼女が好きな短編を一つ教えてくれた。
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」
その長いタイトルは、今出会ったばかりのヘレンという女の子にぴったりな感じがした。そしてまた、どこか示唆的でもあったのかもしれない……と、それから何年かした後に私は振り返ることになるのだが、その時はとくに気に留めたりはしなかった。気に留める隙もないくらい会話はスムーズに進んでいたし、二人との関係は理想的に、そして時計の針は和やかに時を刻んでいたから。
それからヘレンは、カズオ・イシグロ、ユキオ・ミシマ、ヤスナリ・カワバタの文学について語り、とくに好きな作家にケンザブロウ・オオエを挙げた。
「けっ、ケンザブロウ・オオウェー!?」
ヘレンの口元から、真っ白な歯がこぼれる。キャミソールからスベスベの肌をのぞかせた25歳の金髪の美女が、足先にひっかけたビーチサンダルを軽やかに揺らしながら、大江健三郎について語るというのは、しかも、爽やかな笑顔で語るというのは、なかなかシュールでセクシーだ。
そんな風にして私たちは知り合い、そのあと1週間あまりを同じ村で過ごした。小さな村の中ではお互いに顔を合わすことも多く、よく雑談をして時間をつぶした。夜はバンドの音楽に合わせて、砂の上で一緒に踊った。彼らはビアボトルを手に、気持ち良さそうに体を揺らしていた。二人と一緒に過ごす時間は、なぜだかとても心地がよかった。退屈も緊張もしなくて済んだ。彼らにはきっと、変な過剰さというものがなかったからだろう。
それが音楽であれ、書物であれ、彼らの趣味には人を遠ざけるような極端なところや偏りがなかった。たとえあったとして、二人はそれをあえて人前で披露するようなタイプではなかったし、ただニッチであることだけを理由に本物ぶるようなある種の扱いにくさは、彼らの性分には含まれていなかった。旅に対するスタンスも同じだった。彼らはクレイジーさを過度に求めてはいなかった。スペシャルであろうとする気負いのようなものもなかった。武勇伝やらエキセントリックな体験といった比べようのない個々人の経験に対して、不毛な競争をふっかけてきたりもしなかった。彼らとは四六時中一緒にいる必要もなく、気が向いた時だけ話せばよかった。二人には何の気兼ねもなく、自由な意見を言うことができた。なぜなら彼らはいつも自然体で、見たところ誰に対しても開かれたカップルだったから。
昼間の二人は、一緒にいることもあれば、別々にいるところを見かけることもあった。ヘレンは宿の中庭で本を開き、よく一人でページを繰っていた。他の旅人が置いていった本を片っ端から読みあさり、その感想と批評を書き溜めていたらしい。もちろん、私には私の日課があった。午前中はラスタマン宅でジャンベ(太鼓)を習い、午後は彼のアクセサリーショップでボタン作りの手伝いをした。ココナッツの殻をくり抜いて作ったボタンを、一つ一つサンドペーパーで磨くという骨の折れる作業だ。
ある午後、ボタンを作っていると、二人がふらっと現れた。現れたというよりは、ただショップの前を通りがかっただけだったのかもしれない。私は作業の手を止めて、ショップの前に置かれた木製ベンチに二人と並んで腰を下ろした。日が暮れるまで、ずっと話し込んでいたことを考えると、その間には相当数のトピックがランダムに流れていったはずだ。はっきりと覚えているのは通貨と政治の話で、それともう一つ、ヘレンが言った冗談だった。
「旅が終わったら、そのことを本に書いてみてはどう? その時は私が、あなたのエディター(編集者)になるから」
それが、どのような文脈から出てきた言葉だったかは思い出せない。もしかしたら私が、書いてみたいエピソードを一つ二つ話したか、あるいは、私がブログを書いているところを何度か目にしているうちに、ヘレンはそんなことを思いついたのかもしれなかった。「どこかでネットが繋がったら、是非あなたのブログを読んでみたい」と、彼女は言ってくれていたから。
ただし、そんな風に言われたからと言って、私はヘレンがネットカフェに行って私のブログを読み漁る姿を期待したりはしなかった。旅を終えた自分自身が本を書くところを想像したりもしなかった。「ブログを読んでみたい」にせよ「本を書いたらいい」にせよ、それらは社交辞令のようなもので、巷では時折耳にする珍しくない提案だったから。
あの時頭に浮んだのは、何かを書く自分ではなく、編集をするヘレンの姿だった。それは具体的で現実味のある妄想だった。
ヘレンは、海辺に建つオフィス代わりの小屋の中で、束になった原稿を読みふける。やわらかい潮風が彼女のほつれた髪を揺らし、小さな波音が絶え間なく聴こえてくる。しかし彼女は深く集中していて、波の音も風に漂うやわらかい髪も気に留める様子はない。いつもにも増して鋭い視線が、活字にぴったりと吸着したまま紙の上を猛スピードでスライドしていく。一文字残さず、すべてを吸い上げるかのように。ケンタロウが現れて冷えたビールを差し出すと、ヘレンはようやく原稿から顔を上げて微笑えみ、ベンチの隣を彼のために少し空けた。
私はその一枚の絵の片隅に、自分用の小さな机とノートパソコンを運び込み、キーボードを叩く場面をイメージしながら言った。
「それ、真剣に言ってるの? 私のエディターになってくれるって」
「もちろん真剣よ。約束する」とヘレンは言った。
ケンタロウやヘレンと別れたあと、周辺国を経由して一ヶ月後にはベナンに入った。ギニア湾に面した西アフリカの国々は、どこも北へ行くほど乾燥が強くなり、砂の粒径が小さくなる。サハラ砂漠の中心により近づいていくからだ。私はわずか数日でベナンを抜けると、北端の国境からニジェールに入った。その足で第二の都市ザンデールに行くつもりだったが、入国後最初にたどり着いたドッソという街で仕方なく一晩だけ休憩を挟んだ。なぜなら、ドッソに到着したときには夜の9時半を過ぎていて、その先へ向かう長距離バスは翌朝までなかったからだ。しかし、その夜ドッソで見た星空は、私の中に深い印象を残した。バス停の砂の上に寝転んで、シュラフにくるまって見た星々だ。
2
2年間の旅を終えて、私は日本に帰国した。確か5月の初旬頃だった。ケンタロウとヘレンがどうしているかは知らなかったが、たぶんまだガーナでボランティアをしているか、西アフリカのどこかで旅を続けながら帰国後の計画を練っているのだろうと思っていた。私のほうから二人に連絡をとることはなかった。二人からも連絡はなかった。帰国直後はバタバタしていてそれどころではなかったし、また二人にしたところで旅先はネットアクセスも悪く、焦って連絡してくることもなかった。お互いに落ち着き先が見つかってから、頃よいタイミングを見計らって連絡を取り合えばいい。それが1年先になろうと、2年先になろうと問題はない。たった1週間とはいえ、あのコクロビテで掴んだ二人との関係性は、経年劣化の末に安易に消滅してしまうような、そういった類いのものではなかったはずだ。旅先ですれ違い、言葉を交わし、連絡先を交換した人たちの数は、少なく見積もっても300人はいた。けれど長い付き合いを予感できた人は、実際には10人もいなかった。ケンタロウとヘレンは間違いなく、その中の2人だった。
日本に戻るとすぐ、地方の銀行で働き始めた。通帳の残高は4千円を切っていたから、急場をしのぐには本当にありがたい仕事だった。昼間は銀行で働いて、夜はビジネスの計画を練った。強い焦りがあった。輸入業か何かで生きていくしか道はないだろうという気持ちだった。日本社会から一度スピンアウトしてしまった身を何とか立て直し、あの2年間がただのブランクなどではなかったことを証明しなければならないと思っていた。多少むちゃくちゃな手順になってでも、表向きの辻褄だけは合わせてしまうしかなかったのだ。私は着古したTシャツを脱ぎ捨てて、新しいブラウスに袖を通した。すり減ったビーサンを放り捨て、パンプスに両足を突っ込んだ。何食わぬ顔で社会に復帰しようと思った。涼しげな微笑を浮かべて、経済活動を開始するつもりだった。
しかし世の中はそんなに甘くはなかった。いや、甘くなかったのは世の中のほうではなく、むしろ旅のほうであり、それを経験して制御できなくなった自分自身のほうだったのかもしれない。溜め込まれた膨大な異体験が、身体の奥底にわだかまっていた。それは日に日に膨張を続けた。見過ごすことのできない一つの意思として、私の中に居座るようになった。プリテンション(見せかけ)を許さない、旅人の目をしたもう一人の自分だ。
わだかまりを吐き出したかった。でもそれができなかった。誰かと話がしたかった。しかしだからと言って、誰でもいいから話を聞いてくれればいい、といったものでは全然なかった。人から旅について聞かれることは、むしろ苦痛だった。自分でも整理がつかない物ごとを、いったいどこから、どんな風に、他人に説明しろというのだろう。夕飯の献立を説明するのとは、わけが違う。私は何も言わなかった。銀行と家との往復を黙々と続けていただけだった。
夏の終わり頃だっただろうか、ヘレンのフェイスブックのウォールにケンタロウが書き込みをしているのを見つけた。
『ねえ、ちょっと何だか当ててみて。今日、偶然渋谷で、君の好きなハルキ・ムラカミに出くわした。だから君のことを話しておいたよ。ヘレン、君のことを想っている。愛を込めて、ケンタロウ』
どうやら二人の旅は、無事にゴールを迎えたようだった。そして少なくともケンタロウは、日本に戻ってきている。胸の奥で、旅人の目をしたもう一人の自分がざわついた。彼らに会いたいと思った。もう少し頑張れば、きっと自分の生活にもある程度の見通しがつくだろうし、そうしたら二人に連絡を取って会いに行こうと心に決めた。東京でも、マンチェスターでも、どこだって構わない。
秋の気配を感じ始めたころ、ヘレンのウォールにアップされた数枚の写真が目に留まった。ヘレン自身がアップした写真には、秋らしい服を着たケンタロウとヘレン、それに二人の友人たちが写っていた。みんな仲睦まじそうに、街中の散策を楽しんでいる。どうやら二人は、マンチェスターにいるらしかった。そこに居を構え、新しい生活をスタートさせるつもりなのかもしれない。
二人が社会に復帰し、相変わらず仲良くやっていることが嬉しかった。二人には、そうであって欲しいと思っていたから。けれど心のどこかには、寂しさもあった。彼らからは帰国の報告もなく、何となく自分からも連絡ができないでいた。なぜ彼らから連絡がないのかは分からなかった。そして私自身はと言えば、その時の自分の状況をどう説明すればいいのかが分からないでいた。私は、二人を妬ましくも思った。同じ体験を共有する者として、一緒に目の前の現実を受け止め、お互いに支え合いながら新しいスタートラインに立てた二人が羨ましかった。それが、私の偽らざる気持ちだった。
まっとうな社会生活を送ろうと焦れば焦るほど、旅人の目をしたもう一人の自分がそれを拒んだ。私はアクセルを強く踏みこんだ。もう一人の自分がサイドブレーキを無理矢理引いた。ボディーはバランスを失って、激しく路上をスピンする。煙をまき散らしながら車線を横滑りして、それから徐々に失速していき、ついにはぴくりとも動かなくなった。
私は、銀行を辞めた。
涙腺の故障に気がついたのは、それから3日もしない時だった。何かをしているときに突然、左目から涙がこぼれ落ちてくるようになった。それはいつも左の目だけに起きた。いつも何の前触れもなく始まり、しばらく流れ続けたのちにピタリと止まった。なんだかよく分からなかったが、できることなら、よく分からないままにしておきたかった。自分の身に起きている不具合を認めてしまうのが怖かった。それを誰かに悟られることはもっと怖かった。そして、そんな風になってしまった原因を特定されるなどといったことは、とうてい受け入れられそうもなかった。涙腺は速やかな修復を必要としていた。しかし、それが眼科の専門領域でないことくらいは、いくらなんでも分かってしまう。
ある朝目が覚めると、とうとうベッドから起き上がることができなくなった。7時の起床を逃し、ぼやぼやしているうちに8時になった。世の中の常識的な人たちが、学校や会社に向かう時間だ。
見上げた天井の向こう側から、疲れ切った顔をしたサラリーマンが眉間に深い皺を刻んでこちらを見ていた。冷笑を浮かべた口の端に、精一杯の優越感を漂わせながら。
「あなた、何を甘えてるんですか? 私たちから見たらあなたなんて、ただの笑い者ですよ」
ただ天井を見上げているだけなのに、ひどい疲れと眠気があった。息を一つ吸い込むことも苦痛なら、視線を動かすことさえしんどくてできない。それなのに左の目だけが、変わらず涙を流し続ける。もう、このまま静かに目を閉じて、すべてを終わりにしたかった。もう、何もかも、ここで終わりにしてしまいたい。
「あなたには心底呆れました。恥ですよ。あなたのような人間がいると思うと、暗澹たる気持ちになります。消えてください」
長い時間をかけて一つ息を吸い込み、倍の時間をかけてその息を細く吐き出した。
「消えてください」
固く目を閉じ、強い吐き気を押さえ込む。気持ちを紛らわすために、何人かの大切な人たちを思い浮かべた。彼ら・彼女たちのことを一通り考え、それが終わると、今度は旅先で出会った人たちのことを順番に思い出していった。一人ひとり、時間をかけて丁寧に。
浜辺のベンチに座って、黙々と本を読み進むヘレンの姿が心に浮んだ。物語にのめり込む真剣な眼差しも、本から顔を上げた瞬間に見せるポカンとした表情も、本について話しているときのドキリとするほど弾けた笑顔も、そのすべてが素敵だった。ヘレンが振り向くと、ただそれだけでビーチサイドには柔らかい日差しが溢れ、穏やかな浜風がさらさらと漂ってくる。
「旅が終わったら、そのことを本に書いてみてはどう? その時は私が、あなたのエディターになるから」
気がつくと、両目からボロボロと涙を流していた。こんなままでは、ヘレンはおろか、誰にも会いになんて行けない。
全身を縛り上げている虚脱感に抗って、目の縁の涙を拭った。真上からのしかかってくる重苦しい空気を押しのけて、なんとか上体を起こした。両足を床に下ろし、ゆっくりと顔を上げる。窓の外の世界は、すでに夕暮れ時を迎えていた。
ベッドを降りてパソコンの前に座った。ビジネスの計画をいったん塩漬けし、代わりに真っ新なワードページを開いた。サバンナの美しかった朝をもう一度心に取り戻すように、最初の文字を打ち込んだ。旅の終わりにブログを止めてから、ちょうど半年が経っていた。
ヘレンのウォールには、毎週末のようにイベントのお知らせがアップされるようになった。キャンドルを持ってみんなで集まり、ファンドレイジングをやっているらしかった。ガーナでのボランティアの経験を、帰国後の活動に活かしているのだろう。さすがの行動力には脱帽した。彼女はもう、私などには手の届かない、遠いところへ行ってしまったのかもしれない。二人と過ごしたコクロビテのビーチが懐かしかった。そしてふと思ったのだ——ヘレンはあの時の『約束』を今でも覚えているだろうか、と。
2008年、12月24日の昼過ぎに、私は二人それぞれに宛ててメッセージを書き送った。久々の挨拶をするには、ちょうどいいタイミングだと思ったからだ。
『ヘレン、調子はどうですか?(ところで二人は今、どこにいるの?)信じられないけど、コクロビテで出会ってから、もう一年になるんだね。あの時のことは今でもよく覚えていて、もっといろいろ話したかったなって思う。
こっちは、ちょうどカミングホームシックから回復してきたところで、日本で静かに暮らしています。レクチャーをやったり、写真の展示をやったり。それから、あの旅についてのちょっとした文章も書き始めたよ。2年間のカオスにケリをつける、僅かばかりの助けになってくれればと思って。
きっと二人は元気にやっていることでしょう。もしも日本に来ることがあったら、もしくは既に日本にいるのだったら、是非もう一度、二人に会いたいです。メリークリスマス。そして、素敵な2009年を』
同じような内容を日本語で書き直し、続けてケンタロウに送信した。メッセージを送ってから5時間後、先に返事をくれたのはケンタロウだった。英語で書かれたメッセージだった。
『やあ、アキ。連絡もらえて良かった。ありがとう。どうしてた? きっと元気にしてたんだって信じてるよ。連絡しよう、しようと思いつつ、これまではどうしてもそれが出来なくて、ごめんね。実はちょっと言いづらいことがあって、だから、どうか辛抱して読んで欲しい。
今年の5月に、ヘレンと僕はベナンで自動車事故に巻き込まれた。ヘレンは亡くなり、僕は生き残った。
何を言っているのか、正直意味が分からなかった。その一行から先を読み進むことができなくなった。心臓がバクバク音を立てて、耳の周りで鳴っていた。リズムの狂った心拍に合わせて、眼球が前後左右に揺れまくっている。どうも自分はさっきから、同じ箇所ばかり、何度も何度も読んでいるらしかった。上空から見た西アフリカの乾ききった大地が、猛スピードで脳裏に押し寄せてきて、何かを引きちぎるようにまた遠ざかっていった。そんな光景が繰り返し頭の中をぐるぐるしていた。何度も、何度も。コントロールを失った小型飛行機が墜落を繰り返すみたいに。遠近感覚をすっかり失ってしまった両目で、大きくなったり小さくなったりする文字列を少しずつ読み進もうとする。一字、一字に、動揺しながら。
ヘレンは亡くなり、僕は生き残った。この事態をどう理解すればいいのか、僕は本当に分からない。なぜなら彼女は、僕のすべてだったから。
僕は6月に日本に戻り、今は実家で暮らしている。ようやく仕事も見つかった。どうにか生き続けようとしている。君とガーナで出会ったことは、僕らにとって本当にワクワクする体験だった。今でも僕は、道ばたで一緒に朝飯を食べたことや、パトリック(ジャンベの先生)も一緒だった食事のことを覚えているよ。僕らはあの後もよく、君について話した。どこかに落ち着き場所を見つけたら、また二人で君に会いたいと。
東京に来る際にでも是非お会い出来ればと思います。メリークリスマス。そしてよいお年を。ケンタロウ』
何かの間違いかもしれないと思った。人が死に至るには、一連のプロセスというものがあって、誰かの死を知らされるときには、それなりの手順というか、段取りというものがあるはずだ。少なくとも、クリスマスイブの夕暮れ時にこんな形で知らされるなんてことが、ありえるとは思えなかった。悪い夢を見ている可能性があった。私は時々、人が亡くなる夢を見る。混乱ばかりを誘うつらい夢だ。夢で見る死は、いつも決まって唐突で、辻褄が合わない。もがいているうちに、その人が生き返ってくることもあれば、夢であって欲しいと願うあたりで、目が覚めるのが常だった。
すると1時間後に、ヘレンからも返信がきた。ほら、やっぱりね。ヘレン本人から。
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