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『やまと絵-受け継がれる王朝の美-」』@東京国立博物館_202311

まったく12/3までが会期の美術展の魅力を今日書くなんてどうかしていますが、まとめます。

私はもっぱら西洋美術史が好きなので東京国立博物館(トーハク)はほとんど訪れたことはありませんでしたが、今年に入り何度か訪れています。トーハクの平成館で行われていた『やまと絵-受け継がれる王朝の美-』は、会期中(2023年10月11日-12月3日)3回も展示内容が一部変更されるという(しかも大人は1枚2,100円!)かなり大胆?な展示会となっていました。全然知識のない私でもどっかで聞いたことがある、教科書で見たことがある絵画や工芸品が並び、とにかく人で溢れ、正直私はゆっくり見ることはできませんでした。ネットや書籍で高画質な作品が見れる今、本物を見る意味は質感、大きさ(あと美術館ではなければ飾られる場所との融合感など)だと思いますが、それだけを感じてそそくさと帰ってきました。

個人的にはこの展示会の楽しみは図録でした。3,300円の価値ありのボリューム。重厚感がすごい。私は事前に蔦屋銀座で購入して予習をしました。なので、今日はその時読んで面白かった内容を。


やまと絵とはなんともつかみどころがなく、難しい括りだと思う。中国唐の時代に発展した山水画は現在私たちが知るような墨汁一本で描かれた水墨山水画ではなく、青緑山水と呼ばれる彩色画だった。中国ではその後宗の時代に水墨山水画が完成を迎える段階(根津美術館の『北宋書画精華』も見てね)で一度色は捨てられていくけれども、日本では唐代の青緑山水画の基本的な技法を引き継ぎ、江戸時代まで続く。唐代の絵画が唐絵として、またその後の時代の中国絵画が漢絵として、日本に流入したものに対する日本風に変容した絵画をやまと絵と呼ぶ。

主に中国華北系の山水画は中央に高く聳える主峰、峻険な山々、中腹に楼閣を配し、手前には漁師や高僧などささやかな人事が描かれる構成となっている。北宋時代において山水画の集大成と呼ばれる郭熙《早春図》はその全ての要素とそれまでに発展してきた技法が総動員されている。

郭熙《早春図》

唐代の山水画が日本に流入すると唐絵と呼ばれ、多く描かれたという。現存最古の唐絵屏風は京都国立博物館に所蔵される《(東寺旧蔵)山水屏風》(中国では「さんすい」だが、日本のは「せんずい」と呼ばれる)である。

《山水屏風》京都国立博物館、11世紀(平安時代)

手前に描かれる主題は貴公子が山奥の隠者を訪れるという中国風のものであり、彼らを大きく描き近景とし、後方に広がる山々で遠景を表現することで中国山水画の構築的な奥行きが表現されている。青緑山水を引き継ぎながら描かれる山々は中国のように峻険なものではなく穏やかで日本風に変容している。

一方で、現存最古のやまと絵屏風は神護寺にある《山水屏風》である。それぞれ単体で見ると山々に家ね〜という感想しか持ちえないが、比較すると非常に面白い。

《山水屏風》神護寺、13世紀(鎌倉時代)

まず奥行きが明らかに違う。やまと絵は人々の営み、そして四季の景物・景観がそれぞれ独立して同じスケールで山々の中に併置される平面的な構成になっている。中国絵画は三遠法(深遠、平遠、高遠)と呼ばれるさまざまな角度から山々を眺める視点が1つの絵画に混在することで多重構造的な作品が成立しているが、やまと絵の場合には斜め上の視点から人間も自然も同じ重要度で偏ることなく全てを鑑賞者に見せるような構図になっているように思う。
絵画の構成は異なっていても、ここにも唐絵の影響は多くある。たとえば山々は青緑山水の影響を受け、都の郊外で隠遁生活をする女性の許を男性の貴族が訪れる主題は日本の風俗に変容は見られるが山奥に人を訪ねる点は同じである。

これらの屏風は灌頂という密教の儀式で用いられた屏風であったそう。本展示会それぞれを比較してみることができたのは素晴らしき美術館だからできること。(まあ私が行ったのは後半の展示期間だったのでどちらも見れなかったんですけどね。。)

絵画も面白いですが、日本におけるやまと絵の成立・発展についての考察が非常に興味深かった。日本史は本当にわからないので勉強のし直しが必要ですが、要するに天皇が自己の正当性をアピールするために持ち出したものが和を示すやまと絵だったのではないかということ。(西欧もその正当性を示すために教会に権威付けをしてもらい、ローマ帝国文化や伝統を引き継いだのと同じですね)

平安時代、嵯峨天皇(9世紀前半)が中心的存在となって唐風文化を積極的に移植し、漢詩文学が隆盛した。しかしながら衰退期にはいった唐の文化をそのまま持ってきたのではなく、あくまで日本としての権力は保つために一時代前の盛唐の文物を参考にしたのであった。日本が日本としての文化を保ち続けられているのは大国中国を隣にしながらも一定距離を置いた文化受容をおこなってきたから。

そして通説では日本固有のものを描く欲求が高まり、また遣唐使の廃止により国風文化が生まれたとされる。しかしながら実際に遣唐使廃止の建議(894年)から醍醐天皇の勅諭で編纂(905年)された最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』まではわずか10年弱であり、その前から日本文化である和歌ややまと絵は育っていたと考えられる。嵯峨天皇の崩御(842年)から醍醐天皇の時代に中国文化とともに日本文化も発展していたったのであろう。

『やまと絵展』図録p9

では9世紀後半に日本文化が育つ何があったかを考察する際に、醍醐天皇の前の宇多天皇について取り上げている。仁明天皇から第一皇子の文徳天皇へと皇位が移るが突然の病で急死し、その後清和天皇(9歳で即位)、陽成天皇(9歳で即位)と立て続けに幼年天皇が続き、また宮中殺人事件などで次の天皇として仁明の皇子である光孝天皇が即位することとなった。彼は一代限りとしていたがなんやかんやあり、皇統は光孝-宇多-醍醐へと移り、本家である文徳-清和-陽成にその後戻ることはなかった。

宇多天皇は巨籍降下から皇籍復帰という不安定な政治基盤の中で生まれた天皇であり、彼はその皇帝との正当性を示すために持ち出したのが和の文化であった。

前述の通り、和歌は『古今和歌集』が編纂するかなり前から育ち漢詩と併立するような文化状態だった。そして唐絵の漢詩屏風歌に倣い、やまと絵に和歌が詠まれる屏風歌も作られ始めたとされる。ただし、唐絵漢詩が天皇に積極導入され公的な場所に飾られたのに対して、やまと絵和歌は貴族の私的な文化サロンなどで享受されていた。嵯峨天皇が崩御し次の仁明天皇の時代になり、次第に盛唐文化に対する和の優位性が自覚され始めるようになる。重なるようにこの時代に衰退期に入っていた唐への最後の遣唐使が派遣される。

このような状況で、宇多天皇は仁明天皇をモデルとし、唐文化と和文化の併存という新たな価値観を提唱した。そして私的な空間に留まっていた和歌による歌合が公的な場で行われるようになるのである。また嵯峨天皇の時代には唐絵一色であった清涼殿内裏の殿舎を唐絵と共にやまと絵で飾り、双方が並び立つものとして視覚化したのであった。

文化と権威や権力という主題が結構興味があるらしい。
今日はここまで。

おしまい


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