母の店や祖母のごはん。

父親がおらず、母は仕事で忙しい中、私を育ててくれたのは祖父と、祖母と、叔母だった。

母は若い時から本当に仕事一筋で、たぶん子育ても、全部祖父母と叔母に任せていたように思う。

母は20歳くらいで自営業の店をはじめて、今もその店を続けている。
昔は繁盛していて、家族総出で手伝っていたし、パートの人がいたこともあった。
専門学校を出てから子供を産むまでは、私は1人で厨房を任されていた。
今は、私がいた大きな厨房は倉庫のようになっていて、店に小さなキッチンを作り、母が1人でも仕事ができるようになっている。

喫茶店というか、スナックというか、食堂というか、なんでも屋さんみたいな感じで(時代によりだいぶ移り変わった)、出前なんかもやっていたし、夜は遅かったし、母はずっと店に出ていたし、寝るのも起きるのも遅く、私の面倒を見る時間がなかったのだ。

これもまた前述したように、当時、父がたびたび失踪してしまうので、出前の注文があっても行かれず、まだ板金工場の社長をしていた祖父が呼び出されて、出前に駆り出されることもあったという。

祖父は、自分が社長でいるのに、汚れたつなぎのままで店に駆けつけ、おかもちを持って出前に行くのがプライド的にとても辛かったようだと、あとで祖母から何度も聞いた。

母が仕事を続けられたのは、家族がいたからだとつくづく思う。
保育園の送り迎えも、私のごはんも、オムツを変えるのも、全部祖父母と叔母がやってくれていた。

祖母が亡くなる少し前、よく『あっちゃん(私)をY子(母)が抱っこしているのを1回も見たことがない。今も、本当の母娘だと思えない。』と言っていた。

このことは、あとで書く私と母の関係にも大きく関わってくる。

夜も朝も遅い母に代わって、私を叔母が起こしてくれ、祖父母が八王子からまず市場に寄って、買い出しをしてから店に来て、料理上手な祖母が、朝ごはんを作って私を迎えてくれていた。

祖母が作るごはんはとってもおいしかった。

じゃがいもを細く切って炒めたもの。
これまたじゃがいもを細く切って、カレー味の衣をつけて揚げ、ウスターソースをかけたもの。
ネギの青いところがいっぱい入った納豆。
大根の抜き菜を軽く塩に漬けて、細かく切ってごはんに混ぜたもの。
ネギと、さばなどの荒節を混ぜて醤油をかけたもの。(店のお味噌汁のだしに荒節を使っていた)
甘辛いいりたまご。
絹豆腐を、砂糖と塩と豆板醤で炒ったもの。

思い出せるおかずはいっぱいある。

母はあんまりかまってくれなかったけれど、私は祖父母と叔母に愛情をたくさんもらったと思う。
おいしいごはんとみんなの優しさがあったから、私は生きてこられた。

じーじ、ばーば、博子さん、本当にありがとう。
みんなお空に行ってしまって、私はとても寂しい。

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