「折り重なった、ゆかりの日々の上に」

 目が覚めた時に、その人がいるという温かさ。その温もりが遠く離れてしまったことに、あと何回涙を流せばいいのだろう。こちらにも海ができたなら、渡って来てくれるだろうか、あの人は。
 涙を流しても、日々はやってくるし、死にもしない。私はまだここで死ぬようにはなっていないのだろう。その生の先に、あの人がいるといいのだけれど。
『身はかくて さすらへぬとも君があたり 去らぬ鏡の影は離れじ(たとえこの身は世の果てまでさすらいの旅つづけても、あなたの鏡の面には私の面影がとどまってあなたと離れはするものか)』
そう言われれば、日がな一日中でも鏡眺めてしまう私だけれども。やはり、どうしていても明日は訪れ、この世の私以外の人々も日々を過ごしている。そう、私の知らないところでも、この世は営(いとな)まれ回っているのだ。
今日も今日とて、姫さまは須磨(すま)に行かれた源氏の君のことを想っている。昔、祖母の尼君(あまぎみ)が亡くなられた時も、よく恋しがって泣いていたものだ。今はあの時のように、誰も姫さまをさらってはくれない。あの日から、姫さまが教えられ与えられたものは、きっと他の誰にも同じものはあげられない。それをきっと、姫さまももうわかっているのだろう。恋しいと心で叫びながらでも、源氏の君に託(たく)された物を守り抜こうとしていらっしゃる。変わらず無邪気(むじゃき)で子供っぽい所も残っているけれど、それもかえって可愛らしい。そう思うのは、乳母(うば)の欲目(よくめ)かもしれないけれど。物悲しい夕暮れは、どんな季節だろうと感傷(かんしょう)を誘う。秋に人恋しくなるのは、夕暮れがあまりにも、美しすぎるからなのかもしれない。そう思いながら、沈みゆく夕日を眺める。
「今日も陽が沈んでいく。」
そう呟く姫さまの顔に、夜の暗闇が一つ影を落とす。それがかえって、美しさを縁取るようで。見慣れた者でも、はっとさせられるほどに美しいのだ。どれ程ともに過ごし、眺めていようとも、誰もがすべての顔など見えはしないのだろう。きっとこの人は、刻々と、一日一日違う美しさをみせる。
「さぞ残念でしょうね。」
「え?」
私がいることに驚きながら、姫さまがこちらを振り返る。
「日々、姫さまが美しくなられるので、側にいられないのを、源氏の君はさぞかし残念に思われているだろうと思いまして。」
「そう、なのかしら。そうだと嬉しいのだけれど。」
「そうでございますよ、きっと。」
陽が沈みきろうとして、わずかに残る夕日が力強く輝く。夕焼けは最後まで美しい。
「私、よくわかっていないんだと思うの。あの人以外を知らないから。あの日から、書も絵も、琴も、その他のなんだって全て。全てが教えられ与えられた、源氏の君から。でもこの世にはそれだけではないと、今はもうわかる。だから、私の知るこの世の狭さに少し怖くなるの。」
人の生は長くはない、こんな時にふと思い知らされる。知っていながら、日々に流されがちな事。
「姫さまは大人になられましたね。」
「そういう事なの…?」
そう姫さまは、少し不満気に私を見やる。
「それだけではありませんけれど、きっとそうなのですよ。」
「そういうものかしら。」
「ええ、きっと。例えば私は、姫さまよりも長く生きておりますゆえ、より多くのものを見ているかもしれません。けれど、私には見られないものを、姫さまは姫さまで見られ、これからも見ていくはず。」
どんな日がこようとも、今日見た美しさは無くならないから。
「姫さまは、それだけのものをきっと見たのです。きっとこれからもそれは、増えていくでしょう。それをこうして思いとどめているなら、これからも貴方は美しく大人になっていかれる。」
「…やっぱり、少し難しいわ。まだやっぱり子供ね。」
「そうかもしれません。けれどだからこそ、これから大人になれるのですよ。」そう、夜の闇に紛(まぎ)れて二人ひそかに微笑みあう。                               「さあ、もう少し中に入りましょう。まだ少し冷えますから。」
「そうね。ありがとう。」
姫さまのまだ華奢(きゃしゃ)な後姿(うしろすがた)が、奥に入るまで見送る。源氏の君は、人も財産もその他のたくさんのものを、この方に託していかれた。この方なら、その才気(さいき)と魅力と、性質と。全てでもって、認められていくだろうと信じて。それがこの先、自分がもう戻ることがなくとも、この方を守る事になると願って。それが姫さまにも痛いほど伝わり、こうしてあの方を待っている。何も失わないように守りながら、ここにいる。私はそれを、心から誇りに思う。
 夜、独り寝(ひとりね)の寂しさを懐かしむ。初めて夫婦になった日に、私がひどく怒ったこと。その後、あの人がずっと私の機嫌(きげん)をうかがっていたこと。父であり兄であった人のことを、結局愛(いと)しく思わずにいることなんて、できるはずもなかったのに。今ここにいない人が、どんな風に何を思っているのか。その中に私もいることを願いながら。今ではここにいない人が、どんな風に何を思っているのか。その中に私もいることを願いながら。私だけを想っているわけではないと、紫のどなたかを重(かさ)ねているのに、私はもう気が付くようになってしまったけれども。私はもう、待つことしかできない、とは思わない。それもまた、戦うことだと思うから。ただそこに在ることの重みと困難さ。人の世は、生は、花のように華やかで儚(はかな)い。幼い頃から私の身近にあった、空気のような概念(がいねん)。どんな人であろうと、生きている人は四季を歩いている。生きている限りは、芽を出し葉を茂(しげ)らせ、花を咲かせ、最期の時まで生きている。私にはそれがとてつもなく眩(まぶ)しい。願わくは、眩(まばゆ)く花が咲きほころぶ春のように。日々がけして、温かな日ばかりではないと知っているから。頬(ほほ)をくすぐる春風の優しさや、匂いたつように芽吹く草花の力強さを胸に描いて。どうか出会う人の春となれるように願う。私の一番好きな季節だから、好きになってもらいたい。                あの人にも。

                <完>

参考文献・引用 源氏物語 一~七巻 瀬戸内寂聴訳

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