見出し画像

佐々木について

12月は雨から始まった。
日付を越える頃、友達の誕生日をお祝いするために近所のコンビニに。誕生日プレゼントを渡した直後、雨が降り出した。コンビニの軒下にいてもコートが濡れるくらいの雨。すごい、地球もお祝いしてるんだよ~て、その時は盛り上がったけど、今思うと祝福に雨なんて聞いた事ないな。

こんな12月1日、新宿武蔵野館で内山拓也監督の映画『佐々木、イン、マイマイン』を観た。公開から1年を記念した凱旋上映だ。

時々、自分の年齢に気付く瞬間がある。
友達の誕生日を祝ったとき、自分より年下の人の活躍を目にしたとき。好きだったお店が潰れているのを見つけたとき。たいてい、そういう時は寂しい。どこかで、ノスタルジーの語源は、もう帰ることの出来ない家を思う時の痛みだと聞いた事がある。
主人公の石井悠二は、その痛みに触れないように、過去からも現実からも目を逸らす。悠二は役者を目指して上京し27歳になったが、後輩に先を越される始末。稼ぐために始めたアルバイトも身が入らない。気の抜けた悠二の目は確かに開いているが、過去も現在も見つめていない。
そんなある日、高校時代の同級生多田と再会する。居酒屋に場所を移し近況を報告し合う2人、うだつの上らない悠二を前に、多田の論調は徐々に説教臭くなっていく。同窓会にも顔を出さなかった悠二にとって、その席の居心地がいいはずはなかった。

「同窓会、佐々木も来たよ。」多田が言うと、どの話も聞き流していた悠二が反応した。悠二は佐々木、多田、木村の4人と青春時代を過ごした。久しぶりに佐々木の名前を聞いた悠二の頭に佐々木コールが響く。「佐々木!佐々木!」手拍子と掛け声に合わせて佐々木が服を1枚ずつ脱いでいく。そこが教室でも外でも佐々木には関係ない。「佐々木、青春に似た男」とはこの映画のポスターに書かれたキャッチコピーだが、悠二にとって佐々木は青春そのものだった。

佐々木!佐々木!佐々木!

悠二は現在ユキと同棲中だ。しかし2人はすでに別れている。「冬にはここを出るね。」と話すユキに対して、悠二は「俺はまだ考え中」と答えをはぐらかす。かつてはピッタリくっつけていただろう、2人の布団の間にある、冷たい隙間をカメラは捉える。その隙間を見つめる悠二が、ユキとの関係を元に戻したいと考えているのはすぐにわかる。それでも、ほんの少しの振動で崩れてしまいそうな2人の関係に、悠二が何かできるわけは無かった。役者にも、アルバイトにも、ユキにも、悠二は全てを注げられない。

高校時代、佐々木の部屋は4人の溜まり場だった。この家には母親がおらず、父親も滅多に帰ってこない。漫画や本がゴミと一緒に散らかり、カップ麺が常備された家が高校男子の溜まり場になるのは必然だ。床に穴が空いていようが、高校生の彼らにとってはそれも楽しい。
ある日、佐々木と悠二の2人は、ブラウン管テレビに映るカーク・ダグラス主演のボクシング映画『チャンピオン』(1949)を観ていた。「こんな男になりてえ、生き様だよな人生って」と佐々木は興奮している。その直後、不意に「悠二、お前役者やれ」と言い放つ。悠二が役者に対してどれほど関心があったかはわからない。それでもこの佐々木の言葉が、悠二の背中を東京まで押した。

いつも通り佐々木の家で遊んでいるうちに悠二は昼寝をしてしまう。目を覚ますと多田と木村はもう帰っていた。佐々木はテレビでニュースを見ている。象の赤ちゃんが生まれたらしい。じっとテレビ画面を見つめながら佐々木が言う。

「悠二、やりたいことやれよ。お前は大丈夫だから。堂々としてろ。」

夕方、もうすぐ沈む太陽が佐々木と悠二を照らす。相変わらず部屋にはゴミと本とが散らばっている。その部屋で佐々木は言った。佐々木の目はテレビに映る象の赤ちゃんを捉え続ける。生まれた瞬間、赤ちゃんは最も可能性に溢れている。人間も同じだ。日ごとに出来る事が増えていき、大きくなると将来の夢を見つける。そしてその夢に向かって進む。でも段々と壁が見えてくる。才能や能力の壁かもしれない。金銭的、家庭環境で望む選択肢を選べない場合もある。
動物園で生まれた可能性の塊を目に、佐々木は悠二に大丈夫だと声をかけた。同時に、たった一滴だけ涙をこぼす。まるで、佐々木にはもう選択肢が無いかのように。悠二はその涙を見ただろうか。悠二は何も言い返さず、ただテレビを見つめるだけだった。

佐々木との青春を思い出すことは、27歳の悠二にとって、半ば強制的に過去の自分と向き合うことに繋がる。いくつかの選択肢の中から悠二は役者になる未来を選んだ。多田との再会と時を同じくして、悠二は後輩に勧められテネシー・ウィリアムズの戯曲『ロンググッドバイ』に参加する事になる。
稽古を重ねていくうち、戯曲の台詞が、悠二の精神、そして過去に徐々に入り組んでくる。

”お前はいつだって言ってるんだ、さよならを。いつだってどんなときだって。
なぜならそれが人生だから。ながいながい、さよならなんだ。
そうしていつか最後のさよならにたどり着く。それは自分自身へのさよならだ。”

彼女と同棲している家を出れば彼女との思い出が消える。役者に全力を注いだら自分の限界が見えてしまう。苦しいがこれは事実として存在する。これは物語を見届ける観客それぞれにも存在する苦しみだ。悠二はそこから目を逸らしていた。悠二にとって、忘れることへの恐怖は前進する事への恐怖でもある。
佐々木を通じた過去との対峙の中で、その青春時代は輝いていた。しかし、悠二はもうあの頃には戻れない。目の前に選択肢がいくつもあって、どの道に進むべきか悩めていたあの頃。それでも、当時選択した先に今の悠二がいる。別の選択をしていたら、ユキと出会うことすらできなかった。多田との再会もなかったかも知れない。過去を捨てる事とも、乗り越える事とも違う。さよならの連続だ。あっという間に過ぎ去る時間の中で、悠二は最後のさよならに辿り着く。

”世界は偉いスピードで進んでるんだ。付いていかなきゃ。
でも、さよならも言えないほど早くはないだろう。”

「そのうちってのはただの逃避じゃないか?」居酒屋で多田が言った。
悠二はあの夕方、佐々木に何も声をかけてやれなかった。悠二の背中を佐々木が押したように、佐々木にもそういう存在が必要だったかもしれない。しかし、この過去を考え続けても今は変わらない。
人生はさよならだ。自分の意思で、時には無意識に、さよならを繰り返す。
どんな瞬間もあっという間に過ぎ去っていく。それは寂しいし、苦しい。
でも、だからこそ尊い。その事に気が付いた悠二が一歩を踏み出す。
忘れたくないとその場に留まるのではなく、忘れたくない今この瞬間に触れるため、悠二は進む。あっという間に過ぎていく世界に付いていくため、そのために走る悠二の姿はとても儚く、美しい。
その姿は観客に、今この瞬間に触れ、伝えたいという衝動を沸かせる。
それは佐々木コールに似た、青春に似た衝動だった。

この映画を一緒に観た友達とは大学1年の頃に出会った。
図々しくて、平気で人のプライベートに踏み込む。かと思えば、その場にいる人が楽しくなるよう気を遣ったり、カラオケでは相手によって歌う曲を変えたりする繊細な人だ。
そんな友達が、僕が書いている日記を読みたがった。
人に見せるものじゃないと断っても、読むまで帰らないという態度で読みたがる。彼の場合、読むまで本当に帰らない。
仕方なく日記を読ませると「お前これを公開しろ。絶対やれ。」としつこく言った。別の日も日記を読みたがって、読むと必ず「絶対やれ。」と言った。
だから最初に書くときは、この日の事、彼に似た佐々木の事がピッタリだと思った。


この先何度も選択を迫られる事がきっとある。
その時、頭に浮かぶのは誰の言葉だろう。
誕生日を祝った友達か、下手でもいいから書けと言った友達か。はたまた。
僕は誰かにとっての佐々木になれているだろうか。
これからなれるだろうか。

みんなの心に佐々木あれ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?