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あげることば、とどまることば

随分と“ことば”は語りやすくなった

いつからだろうか、日本語を口で話すより、指で話していることの方が多くなったのは。
高校時代、帰りが遅い私を心配して母はよく私に電話をかけてきた。今思うといちいち電話ではなくてメールでいいのではないか。とも思うが、きっと母からしたら電話の方が手っ取り早く、心配な気持ちを解消するには1番良い方法だったのだと思う。それから私は地元を離れ、県外の大学へ。そして東京のデザイン会社に入社し、母の住んでいる地元からはどんどん離れていった。一緒に住んでいた高校時代でさえしょっちゅう電話をかけて安否確認をとってきた母なのだから、700kmも離れた今ならおそらく毎秒の如く着信音がなるものだろうと思っていた。

しかし、本当のところは電話の回数はほぼ0に減った。
そして、暖かかった母の声で発せられていた言葉はなんの変哲もないヒラギノに置き換わり、その時々で変わる声色の感情は、大学の友人と同じ形のスタンプに変化した。きっとスマホに切り替えて久しい母には、テキストを入力して簡単に送受信ができるツールの方が昔のメールよりはるかに便利で、その便利さは電話を上回ったのだろう。

別にどっちの頃が良かったのか。なんてことはあまり考えないし、別にどちらも良くも悪くもないように感じる。電話では細かな母の人間性を感じ取れたし、チャットでは、その快適さ故にいつもはしてくれないような無駄話をしてくれるようになった。母との会話はきっとこのチャットという形のツールが普及してからの方がずっと濃く、そして多くなったと思う。

こんな風にきっと言葉は少しだけ、ちょっと昔よりも少しだけ語りやすくなったような気がしている。毎日毎日、会ったこともない“フォロワー”というカテゴリーの人間が呟くツイートという身の上話を散見し、仕事では長文で案件の話が飛び交う。友人との腹をがよじれるほど笑った記憶は、景色や季節独特の空気の匂いで思い出すのではなく、チャット履歴を遡ればすぐそこにあった。語りやすくなった言葉は、僕のすぐそばにあったし。大事な言葉は形として永遠に残すことができるようになった。でもその逆も然り。二度と思い出したくない言葉は、僕のずっと側で永遠に残り続けるし、アクセスできてしまえるようになってしまった。

“ことば”はやっぱり難しくて

語られやすくなった言葉は、もちろん人間にとっていい影響を与えたと思う。1つは世界の隔たりを透明にしたこと。もう1つは誰も我慢をしなくてもよくなったということ。これらは今まで言葉が語られづらい時代では考えられないほど人間の思考を変えたと思う。発信することで、思いもよらない自身の才能に気づけたりだとか、ずっと疑問に思っていたアイデンティティに確信が持てたりだとか。人はもっと人の魅力に目を向け始めることができた。思っていることを口に出すと夢は叶うよなんてどこかで聞いたあの名言も、こうして言葉を発しやすくなった世界で、たくさんの人が本当の気持ちを語った世界では、きっと昔より多くの夢が叶っていて、案外本当のことを言っていたのだろうなと今更思う。

でも、もちろんそれだけでうまく世界が回るような都合のいい話ではなくて、その裏に起こっている言葉の難しさ、悲しさに関しても、もう少し目を向けていかないといけない。語りやすく、語られやすくなった言葉は人と人の間に議論を起こした。それは世界を前進させる健全な議論もあれば、人の言葉の隙をつく不健全な議論もあった。そしてその議論は徐々に形を変えていき、気づいたら人間の一番汚いところをすくいとったみたいな誹謗とか中傷のような言葉のやりとりに変わって行った。でもきっとそれ自体は昔からあったのだろう、でも世界の隔たりを透明にした今の世界では、その言葉の刃のサイズは変わらずとも数は大きく変わった。会ったこともない無数の人間から言葉というものを滅多刺しにされる光景も日常的に目の当たりにしている。それでも心を炒めるばかりで少し慣れすらも抱いている自分にゾッとしたりする。

いつの時代だって言葉はやっぱり難しくて、人間はうまく扱えた試しは無かったりする。そして、もっと語られやすくなった言葉は人の感情と言葉を繋ぐ回線の制御というか、トリガーをゆるくしてしまい、もっと開放的な言葉を使えてしまうようになった。

あげる“ことば”

自分だってその1人であることは間違いない。SNSを初めてもう10年近く立っているし、人とテキストチャットで話している年数もなかなかに長い。その中では思い切って、罵声を浴びせたこともあるし、その逆もある。若かった。なんて言い訳はいくらでもできるけど、やってしまっている過去、きっとこれからも間違えるであろう言葉の扱い方に責任をしっかりと感じるために最近はずっと考えていることがある。

それは、
人にあげることばと自分に言い聞かせるべき言葉はきっと別なのだろうな。ということだ。きっとこの2つの言葉を区別して扱うことで言葉による失敗は今よりも少なくなるんだろうなと思っている。

まずは人にあげることばとはどんな言葉なのかを考えてみる。僕が現時点で出している答えは、できるだけポジティブであること素直であること前に進めるヒントになりうることの3つに当てはまる言葉だと思っている。これは例えば「注意する」とか「批評する」とかが当てはまらないということではなくて、これらはきっと素直であることという項目に当てはまるのでしても良いと思っている。しかしここで言葉を選ばなくても良いかと言ったらそんなわけはなく、ここでどの言葉を逐一チョイスしていくかの軸が、残りの2つのポジティブで、もらった方が前に進めるヒントになりうるような言葉を選んで注意や批評に素直でいられる言葉を語れると良いのだと思う。

誰かにあげる言葉は、なんらかのプレゼントであれば幸せな世界であると綺麗事であると重々承知であるがそれでも言っていきたい。

とどまる“ことば”

一方で人にはあげずに、自分の中にとどめることば、すなわち自分に言い聞かせる言葉というものもあると思っている。そしてそれを判断する基準も実はあげることばとほぼ一緒であって、ポジティブであること素直であること。そして最後は自分を奮い立たせる言葉であること。この3つは僕ら自身に向かって語りかける言葉であると思う。きっとこれは誰が主語になっているかだけの違いで、声を発する自分もそれを受け取る誰かも幸せになるためのものだから、都度この言葉の主語はどちらに向けてるとハッピーなのかな。を考えるといいんだろうなと思う。

例えば苦しくて苦しくて、もう逃げたい。という窮地の状況で追い込まれている自分の向かって“大丈夫”というのはポジティブでもないし、素直な気持ちでもない。一見奮い立たせているように見えて、実は言葉で感情を押し殺しているだけだったりする。だから大丈夫という言葉は自分に言い聞かせるものではないと思ったりもする、逆に何かに落ち込んでいて、希望を見出せない誰かがいたときには、その人の話に耳を傾けた後にちゃんとした“大丈夫”を贈ってあげるべきだなと思う。

「お前はプロなんだからしっかりしろよ」なんて言葉も、世の中にたくさん存在するプロの基準を自身の一軸だけを持ってして誰かに振りかざすのではなく、何か根性を発揮する場面で自分に向かって言い続けて行きたい言葉だったりする。俺はプロだ。そう言って自分を奮い立たせてきた場面は僕は何度もある。

声でもテキストでも“ことば”は“ことば

別に言葉の本質が変わったなんてことはなくて、ただ単純に伝え方とそれにともなった伝えやすさが変わってしまっただけなんだろうと思う。悪い面は極めつけて目立ってしまっている世界だが、きっとそれよりも幸せになっていることだってある。僕らは今はまだ言葉でしかちゃんと誰かに気持ちを伝えられないのだから。声でもテキストでも一緒であるから。
誰かにあげる言葉か自分にとどめておく言葉なのかはしっかりと考えて使っていきたいと思う。

毎日言葉で失敗してしまうけれども、それでも仲良くしようと僕らは言葉をこれからも使っていく。

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