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「答えが出るような内省はしない」- ミドルマネージャーを経験し気づいた大切なこと -

デザイナーという仕事を始めてからもう5年目が終わろうとしている2023年、年の瀬。
美大生だったあの頃と比べても『何者かにならなければ』という漠然とした焦燥感も徐々に消えさり、むしろ自身の仕事に対する真っ当な意味、意義というものを欲しがっていることに気づく2023年、年の瀬。

嫌な焦燥感と別れてから「自身が手を動かすこと」への執着も徐々になくなり始めたように思う。モノを作ることが嫌いになったわけではない。ただ、モノづくりにおいて、自分が手掛けていることに意味を見出しすぎていた自分がもういないということだと思う。放っておいても勝手に作るだろうと自分で思うからこそ、至る所で自分が手を動かす必要はないと思えている。そしてその代わりに「自分以外の誰かが手を動かすこと」に対し、より興味を向けるようなった。

縁あって、今年に入ってから所謂「デザインマネージャー」というロールにチャレンジし、プレイヤー兼マネージャーとして奔走している。
マネージャーという仕事をアカデミックに、またはOJT的に習得した経験はもちろんなく、いきなりデビュー戦で走り始めたわけだが、結局のところ「地道にやっていくしかないな〜」という感想に尽きるし、「やっぱり心がちゃんとしんどいな〜」と思うことばかりだったように思う。
そのような、楽しくも苦悩に溢れた今年を振り返り、ミドルマネージャーとして大切だと感じたことを備忘録としてここにまとめようと思う。

対話には、見えないパワーバランスが存在している。

我々の会話は全てポジショントーク

良くも悪くも、マネージャーという肩書きがついたことで、“人と話し合うこと”についてよく考えるようになった。
自分と上司、自分とメンバー、自分と他マネージャーなどの対話でコトを決め、モノを進めていくためには、コミュニケーションの位置関係を意識し関わり合う必要があったからだ。
そしてその中で、いかに「対等な対話」を作ることが難しいかを思い知らされている。

私は現在、業務委託を含め5人のデザイナーのチームをマネジメントしている。メンバーの仕事をドライブさせる中で、もちろんあらゆる対話が生まれるわけだが、私はそれらにおいて「内容の純度を高める」ということに意識を向けていた。例えば、1on1で適切なアラートを出せない/吸い取れない内容の対話であれば適切ではないし、上司を意識したWILLを無意識に共有してしまう関係であれば、互いではなく嘘の対象を見つめて話しあっていることになる。

邪魔している概念は、いわゆる評価者/被評価者という関係や経験者/未経験者というスキルの差であり、それらが作り出す対話のパワーバランスによって発生する「無意識に自身のロールを使って、相手とコミュニケーションする」という関わり方が、対話をややこしくしているように思う。

「同じ目標をみて話す」という言葉にすれば簡単なことが、実はマネージャーとメンバーの間では本当に難しい。
「対等に話そう」とお互いに取り決めて話し合おうとも、この関係性はなかなか崩すことはできない。きっと悩んでいるだろうけど笑っているメンバーや、うまくいっているけれどあえて喜びを発散させようとしないメンバーを見るたびに、実際のところ、私たちの対話は全てポジショントークのぶつかり合いであることを知る。
私のマネジメントのスタートは「人と対等には話せない」という気づきから始まったのである。

アジェンダこそが対話を対等にする

対等に話そうね!と口約束をするだけでは、無意識に発生するポジショントークやそれらによって破壊される心理的安全性を守ることは難しい。
しかし、マネージャーとしてメンバーが思ったことを伝えたい方法で伝えられる環境はベストであり、メンバーにとってもベストであることも事実。

そのため私が最初に行ったのは、以下の意識だった
・他者と対話をする時には、ロールによって優位になる場合があるということに自覚的であること
・その優位性が強く働きそうな場合、対話には"アジェンダ"を設けて進めること

特にアジェンダの有無には強くこだわった。例えば評価MTGやFB会、振り返り会などはできるだけアジェンダ化をして取り組んだ。特段意識したのはアジェンダをメンバーに作ってもらい進行することで、メンバーが提案したアジェンダには基本乗っかり対話を進めた。「話したいことが話せる」という状況はメンバーの心境を赤裸々にしてくれるように思えた。

あるメンバーからは「上司としてのFBと峰村さん個人としてのFBの両方が聞きたいです!」と提案してくれることもあった。確かに、会社人としての振る舞いと個人的な振る舞いが一致していないケースもある。自身で場のアジェンダ(ルール)を決められるという安心感が、心境を打ち明けるトリガーになってくれたら嬉しいなと思う。

自分自身の責任にすることは、解決策として最も簡単で、効果があまり見込めない

「人を変えるよりも、自分を変える方が簡単」という言説は至る所で耳に入るし、私もそれが間違っているとは思わない。しかし、組織を強くする時に、はたして行動変容の責任を個人に収束させることが健全なのだろうか?と思うことが度々ある。
自責思考は確かに、自分を成長させてくれる。しかし時にそれが逃避として働くこともあるのでないかと気づいた。
「確認を怠ったことでミスをした」という問題にたいして「確認を怠らないようにする」という改善策が自責思考ではたまに発生するように思う。なぜならば、自分の行動(確認を怠らない)を変えることでミスが防げるというロジックが簡単に立ってしまうからだ。しかし、本来は確認フローなどの仕組みを見直すべきであり、それらの課題を他のメンバーが起こさないような環境を作るべきだ。それがないと全員同じところで躓き、全員がそれぞれのハックで解決してしまう暗黙知的な組織が完成してしまう。

特に若手のメンバーは多いデザインチームでは、経験が浅いが故に、仕組みで解決するべき課題と自身の課題として捉えるべき課題を正しく判断できない場合がある。あらゆる課題に対し「自分の経験、スキルが足りないからだ」と結論づけるのは本当に簡単であるが実際は、その方法では組織や個人に対して大きな効果は見込めない。疲弊して潰れてしまう可能性だけが高くなる。

結論、デザインチームでは「チームとしての課題を出し、次週のTRYを決めるMTG」を行なっている。いわゆるKPTなのだが、課題を共有し、チームのものとして扱う訓練として最適だと改めて思う。いわゆるproblemを発散するシーンで個人的な課題感の指向性やメンタリティなどが垣間見える。元々自責思考の強いメンバーは、個人(自分)に対して責めるような発言が最初は目立ったが、その課題ですらTRYとしてチーム全員ができることを考えた。そうするうちに今ではメンバー全員が組織駆動で解決する課題と自身が携えるべき自身の課題を整理できるようになり、お互いにFBするシーンも見られるようになった。

振り返りは当たり前の組織で育った私は、大事なことは理解しているが、何がそこまで大事なのか?を考えることは多くなかったように思う。改めて自分が振り返りを薦める立場になって初めてその恩恵の大きさを知ることができた。

答えが出る内省ではなく、多面的であることを知るための内省を

KPTや評価時期には、必ず重ための内省が発生するが、どうも振り返りという行為は人を単面的に整理してしまうと感じることがある。私はメンバーによく「ルールや場面で、良いか悪いかは大きく変わる」ということを伝えている。例えば、何度も試行錯誤を繰り返して時間をかけてアウトプットする行為は、そのプロダクト(サービス)のフェーズで評価が変わる。早く世に出し試しながら進める場合には向かないし、より新しいステージにコトを進める場合の仕込みであればそれは評価される。
こうしてデザイナーの行動にはやはりその場のルールや環境、状況が大きく評価として影響してくる為、内省時に「良くなかったこと」がある場面でも、見方を変えるだけで「ものすごく良かったこと」になる可能性だってある。

私はメンバーと内省をする時には必ず、状況や環境別に課題や解決策を考えるようにしている。「これはこの状況だから良くなかったけど、こういう場合には最高なのでやってみて」とか「仕事のコミュニケーションとしては悪手だったかもだけれど、気が知れた友人であればより関係を深められそうだね」など、あえて答えを固定させないような会話をしている。メンバーはぐぬぬとなる時もあるが、あえて答えを決めない柔軟さやジレンマを抱えていることがデザイナーにとって重要だと感じる。常にシーソーの真ん中に立ってバランスを取る役割なのだから、どちらかに傾倒する思想ではなくいつまでもフラットに悩み、その苦悩がたくさんの人の気持ちを理解できるきっかけにつながるのだと思う。

人の行動は多面的で、有機的に変化することを理解し、状況に応じた判断をジレンマを抱えながら進む強いデザイナーになってほしいと思う。自分もそうでありたいと思う。

短期的タスクと並行して中長期的なテーマを共に考える

「テーマ」があることはとても重要だと感じる。日々あらゆる場所からデザイン依頼が殺到し、それを打ち返すことに忙殺される中では、仕事に大きな意義を感じる暇もなく過ぎ去っていき、それを不意に客観視してしまった時に人は絶望をしてしまうのだと思っている。
だからこそ、テーマは重要でありデザイナーにとってそれぞれの研究テーマを付与したいとずっと思っていた。私はマネージャーとしてメンバーをPJにアサインしながら稼働率管理をする役割をになっている。短期的なタスクを振ることもあるが、それ以外に長期的なテーマを発見できるような余白も積極的に作ろうと考えた。
一つは学びを言葉にする機会を作ること。マネージャーになってすぐに始めたのがデザインチームが運営するnoteだ。2週間に一度メンバーが交代で記事を発信している。ブランディング目的もあるが、記事を書くためにテーマを探すフェーズを経るためメンバーが興味のあるトピックを常日頃から考える習慣をつけることができる。最初は記事を書くことになれなかったメンバーも苦戦していたようだけれど、今は描きたいテーマを3、4案提案してくれるようになった。

もう一つはイベントの開催。先日Figmaデッサン会というイベントを会社公式として行った。あれももちろんブランディングや採用を目的としているわけだが、内容は私が常日頃やってきた制作をみんなでやるワークショップであり、堅苦しいものでもない。完全に思いつきから後付けで会社のメリットも加えた上でのお楽しみ仕事だったのだけれど、あのイベントを開催することで、メンバーに伝えたかったのは「頼まれるだけが仕事ではなく、自分でやりたいことを勝手にやってしまうことも出来る」ということだ。

どうしても自身の強みを考える時の土台として「会社に評価される軸」を中心に考えてしまいがちだが、それではまだ見ぬ価値を伸ばすことはできない。時には自分のやりたいことを会社というフォーマットを使って大々的に挑戦することだって出来るし、それが意外にウケたりするんだよということをメンバーに伝えられたと思う。テーマは仕事の中から探さなくても、すでに持っているものを仕事の中に取り入れることだって出来る。

自分自身のコンディションは、思ったよりもメンバーに伝搬する

ここまで書いておいて、内容があまりに抽象的であることに若干モヤモヤしているが、「わかる人にはわかってもらえる」と思いながら書き切ることを優先しようと決心中。でも少し不安だが。これまでの文章を読んでもらえたら、想像に易いことだと思うが私は「強いリーダーシップ」を発揮するタイプのマネージャーというよりも「共感力と柔軟性」で組織の結束力を高めるタイプだろうなと思う。答えを一つに絞らないし、強いメッセージングでメンバーを引っ張るようなことはしないし、都度話しながら方向性をみんなにも確認しながら進めるタイプだ。良くも悪くも。

悪いなあと思うのは、自身が曖昧さに肯定的なスタンスで生きているため、気分がグラつくことは多い。ただでさえ難しいとされているミドルマネジメントというロールにおいてフラフラしてしまうことなんて日常茶飯事だ。
しかし、そのフラフラさまでメンバーに共有していた時期もあり、それは大きな失敗だった。マネージャーの気分は良くも悪くも大きくチームのコンディションに影響する。「なんでも打ち明けてほしいから、なんでも打ち明ける」のようなスタンスは実はマネージャー側からすれば良くない立ち回りであった。

チームとしての健康状態の中枢を、そのチームを持っている私が大きく舵取りできることを忘れないで接しようと思う。

今後のこと

久々に長い文章を書いたので、うまくまとまっているかもわからないが、本当に地道に泥臭く進めるしかない中で感じたことを、どこかの誰かの武器になればいいなと思っている。

幸いマネージャーは本当に楽しいと思えているし、人に向き合うことは大好きだと思えている。まだまだ未熟ながら、アンチパターンも多く踏んでいる気もするが、それでもついてきてくれるメンバーには感謝しかない。
デザイナーでマネージャーをやりたがる人間は多くないから珍しいね。とここ最近はよく言われる。そう言ってもらえると嬉しい。

きっと放っておいても勝手にモノを作ると思う。仕事じゃなくたって手を動かしてしまうだろうと思う。何者かにならなければという呪縛から徐々に解放され、今は純粋にモノづくりが楽しい。そんな感情を持ってデザインワークにメンバーが挑めるように、まだ頑張ってみようと思えています。


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