人の目とビジョンとモンスター
新卒のときの私から見た経営メンバーは、得たいの知れないモンスターだった。
私はこんなに苦しんでいるです!とか、こんなこともしない会社はあり得ないと思います!とか、ときに言葉のナイフもぶっ飛ばしながら訴えるたび、経営メンバーは耳を傾けてくれた。
しかし、たしかに話は聞いてくれているのだけど、どこか、同じ温度感で刺さっていない感覚があった。このかんじはなんだろう。いまいち感情が見えない。
なんだかモンスターだなと思っていた。
八方美人と比較思考
幼い頃から、とらわれていたことが2つある。
ひとつは、「みんなに好かれたい」という思い。私自身、長女ということもあって、良い子で模範的であれば親に褒めてもらえたし、そうしないと失望された。
そのうち、周りの人に嫌われていないか、出来ない子と思われていないかを気にするようになっていた。
私は、インターンから6年間、学校向け新規事業を立ち上げに携わり、年60回以上、インターネットの利活用について講演を担当するようになった。その際、講演後にアンケートを取っていた。もちろん、改善を目的にしていたのだけど、当然、なかにはネガティブな内容もあって、そのひとつひとつにいちいち傷ついていた。9割5分は問題がなくても、残りのネガティブで頭の中がいっぱいだった。
この頃、アンケートのシャワーを浴び続けたことで、100人いたら100人に満足してもらうことはありえないことを知った。
100人に好かれようとしたら、自分が先に潰れてしまうことを知った。
* * *
もうひとつとらわれていたことは、「人と比べて自分は出来ているか」ということ。中学受験組だったこともあり、あの子はどこに合格しただの、ネームバリューがなんだの、いつも人と比較された上での私だった。そして、そうやって人のことも見るようになっていた。
6年前、私は管理本部を立ち上げるため、コーポレート側に異動した。経験も知見も何もないところからのスタートで、人の力を借りなければ出来ないことのほうが多かった。あまりにも無力だった。
余談だが、この頃に開設した、はてなブログのタイトルである「私は私。」は、何を隠そう「私は私と思わないとやってられない。」の略である。
人と比べて自分が出来ているかなんかを検証していたら、出来ない自分に自分が潰されてしまうと思った。
ビジョンとモンスター
八方美人も比較思考も成り立たない状況で、自分には何があったのだろうと思うと、ビジョンだけがあった。
学校向け新規事業を立ち上げなければいけない理由があった。管理本部を立ち上げなければいけない理由があった。描いていたビジョンがあった。その思いは誰よりも強かった。
ビジョンを実現するためには、チーム以外の100人に分かってもらえなくてもいいし、出来ない自分に苦しんでいる場合ではなかった。誰になんと言われようと、思われようと、私は私のやり方でビジョンを描き、意思決定をして、チームを率いていく必要があった。
ビジョンへの思いが誰よりも強かったからこそ、八方美人や比較思考の先にいくことが出来たのだと思う。
* * *
しかし、責任を持つ範囲が拡大するにつれて、大きなプレッシャー、緊急事態や珍事に追われるようになり、そうこうしているうちに、起きることにいちいち驚かなくなった。
数年前は気になって傷ついていた数々が気にならなくなった。ハードシングスを乗り越えるたび、感情がなくなっていくようだった。そうしないと、とても最前線に立ち続けられなかった。
動じなくなったと言えばそうなのだが、果たしてそれが良いことなのかどうか、分からなかった。
メンバーから悩みや課題を相談されたとき、もちろん話は聞いているけれど、合理的に対応するために話半分で聞いているし、共感しているようで共感していない自分に気づいていた。
私が新卒のときに経営メンバーに感じていた、そのモンスターなかんじに自分がなりつつあるのではないかということに気づき始めていた。
私は、果たしてモンスターになりたかったんだろうか。
* * *
そんな折、今年出会ったナイスガイCRAZY吉田さんのツイートにはっとさせられ、そして救われた。
幼い頃の私は、ビジョンがなかった。親に求められることがすべてだったし、それを覆してまでやりたいこともなかった。
でも、社会人になってからは違う。ビジョンや描いた姿を実現したい、という強い思いがあった。
「ビジョンにまっすぐ生きる」。
感情が欠落した化け物なんかじゃない。強い思いの塊なだけなんだって、そう思えたよ。
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