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自由とは、形ではなく思考の話。


私が大切な価値観として1位に置いているものが「自由」。
自由とは素晴らしいものだと思う反面、とても難しいものであると思っている。


これは仮設だけれど、私は全ての人間が自由を理解できれば、世界平和が訪れると思っている。いや、若干確信に近い思いだ。


では、自由とはなんなのだろうか。





自由とは形ではなく

自由とは、形ではなく思考の話だ。
と私は考えている。また、自由とは自分勝手とは全く違う。


例えば、フリーランスで自分の時間を自由に使え、お金の使い道を自分で決められる人でも、それは自由とは言わない。形でしかないからだ。
いくら職場に決まりがなく、自由に休みが取れる会社でも、それも自由とは言わない。形だからだ。



見た目は自由だけれど実際は不自由な人はたくさんいる(もちろん私も含まれる)。その中には自分を自由だと勘違いしている人も多い。
無意識から出る言葉を気にして聞いてみるとよくわかる。よくわからない前提を持って話している人は多い。そもそもそう言う人と私は前提が違うから、その後の会話が気持ちよく進まないことも多々ある。


過去の経験から、自分に対するセルフイメージが固定化されると、それが前提となった経験を現実で体験することになる。


繰り返し同じような経験をしてしまって、「やっぱり私って・・」と思うともうその前提は確信に変わる。

自分がどういう人間かなんて自分で決めればいいのに・・




自分の不自由さを感じた話

私は、年上をたてる、男性をたてると言う環境で生きてきた。それが当たり前だった。家では父が一番偉いと思っていたし、学校や社会人になっても、年上をたてていた。まあ所謂社交辞令だ。


社会では必要なスキルだと思うが、私は昔からそれらが義務だった。だから、プライベートになっても、気を遣わなきゃ、たてなきゃ、と言う義務感に縛られていた。本当にその人に対して行動したいわけではないから、それらが苦痛になってきた。しかも、自分の欲から出る「この人のために動きたい」と言う感覚が麻痺しているため、自分が本当はどう思っているかもよくわからなかった。




矯正開始

自分が何が好きなのかわからない。本当にこの行動をしたいのかわからない。


義務感に囚われることが通常となると、自分の思いから出る行動なのか、社交辞令なのかがわからなくなる。これでは社会から離れた時も、自分の人生に支障が出る。そもそも社会の自分よりも大事にしたい自分の人生がある。

そう思ったから、私は25歳の時に一切人のために動くことを辞めた。食事に行ってもお皿をとって箸を置いて注文して・・ということも、辞めた。相手に対して心を鬼にして(自分でやれ)と言うスタンスを貫いた。
当時の彼に言われた。「なんでそんなに急に気が使えなくなったの?」私の行動の変化が顕著に現れていたのだと思う。


でも私は自分の為に、決めたことを貫かなければいけない。だから私は、他人からどう思われようと関係なかった。

6年ほど経ったある日、自分でもわかるくらい「人のために動きたい」と言う欲に出会った。やっとだった。




不自由にさせる前提


「気を遣え」「バカじゃないの?」「君が?無理無理。」「それはできないよ」「あなたには大変だよ」そうやって言われてきた言葉に縛られ、相手の言葉を受け入れてしまい、それが普通だと思ってしまっている人もいる。私もその中の1人だ。きっとまだ自分では気づいていないよくわからない前提も多いだろう。


過去に縛られていたり、人に言われた言葉を気にして取り憑かれている状態では、自由とは言えない。過去の悲しみやトラウマも。全てを許して解放されなければ自由にはなれない。

許し、自己決定、自己判断、責任、自立、愛、優しさ、尊重、尊敬・・色々な要素を通過し、自由になれると私は思っている。



自由、いいじゃなか

繰り返しだが、私自身はもちろんまだまだ自由ではないと思っているし、自由な人間を私は今までに見たことがない。でも、この地球上の半数以上が自由を理解できれば、世界平和が夢ではなくなるのでは・・と勝手に思っている。みんな、人に幸せを求めることもなく、誰のせいにもせず、自分で自分の喜びを生み出し、余ったら分け合うという状態になれるのではないだろうか。


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