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#2 海部公子という生き方

 横浜で生まれた海部公子さんは終戦後まもなく、東京に住まいを移します。父親の商売や母親の薬局を手伝い、一家の食事づくりを一手に引き受けながら十代の多感な時期を過ごします。働き手としての自覚、家族の役に立っているという自負が、やがて自立心へとつながっていきます。

自営のパチンコ屋を手伝った

 出征した父は外地に行くことなく、胃に穴が開いて送還されてきました。その後回復して自動車会社を興して、最後は友達に裏切られて。共同事業はだめだって何度か言っていましたね。それがだめになっても、いろんなこと考える人でした。女性の靴下が足りないような時代で、靴下工場を立ち上げたりしたの。それも時流に乗り損ねたというか、早すぎたというか、途中でだめになったらしいのね。

 それでパチンコがようやくはやり始めた頃、パチンコの機械を設計することが面白くて、パチンコ屋を経営したこともある。二軒経営して、私も手伝いに行ったことあります。常盤台と大山ってとこの。パチンコの玉を磨くね、ずだ袋に入れてあっちとこっち持ってジャラジャラジャラジャラ行ったり来たりするのやら、一升瓶みたいのに入れて上からジャリジャリ突っついて玉が光るように。そんな作業手伝ったことある。

 そのころのパチンコは電動じゃなくてね。面白かったのが「見張ってないとだめよ」と言われてお店で見てたら、磁石でね、ガラスの向こうから操作して玉を入れちゃう人がいるのよね。そうするとジャジャジャジャジャと出ちゃうでしょ。そればっかりだとお店がものすごい赤字になっちゃうわけですよ。それで「あの人磁石もってるよ」って店の裏に行って教えたりね。居候のいとこたちも手伝わされていましたね。

1日100円で家族全員分のおかずを考えた

 私はだいたい裏方で飯作りが仕事でした。東京に母が薬局を開いた当座から忙しくて、毎日8人分のご飯のおかずの算段をするんです。100円で家族全員がお腹いっぱい食べられるおかずを考えるのが、10歳の私の仕事でした。今の2000円くらいかもっとになるかな。それでもかなりきつくて、一円でも浮かせて月末に帳尻が合うようにと。

 面白かったですよ。黒猫飼ってたんですけど、台所でたくわん切ったり、こんにゃく切ったりしてると、私の背中に乗っかってニャーンてねだるんですよ。かわいくてね。私が手でやると、たくわんでも何でも食べるんですよ、猫が。その猫は台所の仲間でした。

 おかずを算段するのが私の頭痛の種でね。私の責任だし、それを果たさないと学校にも行かれないですから。学校の行き帰りには今日のご飯、明日のおかずって考えてましたね。母は全然台所はやりませんでした。

 それがないと、ここでの生活はできなかったかもしれない。「私がいて母が助かってるんだ」という実感が私の自信を育ててくれたかもしれません。だんだん生意気になって、親にとってはかわいくない存在になったかもしれないんだけど、外へあこがれる気持ちが強くなっていたのでしょう。15歳でうち出たんですよ。でも今振り返ると、自然な巣立ちだった気がします。

 父の仕事は全部うまくいかなかったんです。音楽が好きで、うちに大きな蓄音機があってね。クラシックのレコード、「天国と地獄」と「セビリアの理髪師」が裏表になったのなんか、よく掛けてましたけど。子どもにも絵本をよく買ってくれて。塗り絵とかね。二人とも教育は熱心だった気がします。親は自分のことをあまりしゃべる方ではなかったし、気に入らないことはしちゃいけないという無言の圧迫感みたいなものはありましたね。だから自由になりたいという気持ちがあった気がします。

母が薬局を開店。東京へ

 母が薬局を始めたのは10歳の時。終戦後4年目に東京に出たんです。東京に来たのは、父方の祖母がいたりとか、両親の新婚当時に代官山に新居を持ったそうですから、手掛かりがあったんじゃないかな。横浜は焼け野原になったけど、東京には土地があったり。父が歩き回って探すのが好きな人でしたから。

 母の薬局は東京・中野の上高田で始めたんです。新井薬師という駅から7、8分のところ。弟が今は田園調布の沼部というところで薬局をやっています。父も一緒に横浜から引っ越しました。父はものつくるのが好きな人で、新しい家をあちこち修理したり、こまめに家の中でやれることを見つけてやってましたよ。

 薬局は調剤を中心としてね。調剤室が大きくて、長いすがあって。まだ医薬分業の前で患者が注射薬を買うと、薬剤師がそこで注射してよかったんですよ。よく梅毒の人なのか、長いすに横たわった人のおしりをめくって、いとこたちが押さえ付けてね、ペニシリンなのか、白濁したどろっとした注射をぶすっとされていました。

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(1949年7月撮影。左から父・忠美39歳、長男・光紘10歳、長女・公子11歳、次男・俊史6歳、母・芳枝37歳)

ふるい職人の仕事の音で目覚めた

 家の前面はぜんぶ薬局で、自宅は奥にありました。わりとたっぷりしたスペース。二階建ての一軒家を新築したんです。真ん前がふるいをこさえる大川ふるい店(※正しくは、大川セイロ店)という手仕事の家ですよ。毎朝早くから湯気が立って竹をしならせたり、パチパチという作業の始まる音がして。うちもそれにつれてカーテン開けて、お店開けたりしましたね、私も。そのお店は今も残っています。毎日その作業を見て暮らしていました。

 そのふるいやさんの話を硲先生にしたら、知ってましたよ。だからこの大聖寺(石川県加賀市)に来たら、くわを修理するお店があるでしょ。あとは刃物を研ぎますとかね。こういう大事な仕事が残ってる場所なんだと思って。だからなるべくそういうところの役に立って、励ましたいなと思っていました。

 硲先生はすごく手仕事を大事にする人でした。だからここでの暮らしに拍車が掛かったような形ですね。伝統文化の意味っていうか、何かここにきて血肉になってきたような気がします。東京にいたら胡散霧消していたんじゃないかと思います。

 薬局は繁盛して忙しかったんです。母の薬が効くというので。子ども心にとってもうれしくてね。うちのお母さんが人にほめられてると思うと。その一方、小さい時ってすごく敏感で、大人の心が見えちゃうところがあるんですよね。なんか住む世界は別だと思ってるらしい女性が、「あんたのお母さんはどうのこうの」ってね、ちょっとこの人はうちの母に好意持ってないなとかね、感じるんですよ。そうすると警戒心を働かせたりして。子どもって隅に置けないな、って思いますね。考えられるし、感じるし。それが若いほど純粋な形であるんだなと。

焼け跡で夕日を眺めた

 上高井戸の後は下落合の中井という西武線の町で長屋に住んでたこともあるんです。小学校の焼け跡が目の前に見えて、いつも夕日を見に人がやってきて。塀の礎石の上に腰掛けて焼け跡の光景を眺めたりしていました。そのすぐそばに長屋の共同の井戸があって、そこでお米をといだりと働きました。その数カ月間も面白かったなあ。お腹がすく経験ですね。その後に目黒の家ができて引っ越したんです。(続く)

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