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#3 海部公子という生き方


 東京で薬局を営む母を手伝いながら育った海部さんは、中学校卒業と同時に働き始めます。商社やナイトクラブ、喫茶店など職場を移りながら生活費を稼ぎ、16歳の時には渋谷駅のガード下でおでん屋を始めました。生きるのに必死だった日々。でも見知らぬ世界、人との出会いに好奇心いっぱいでした。その店を通じて、生涯の師となる硲伊之助と出会います。(※5/23 大和田胡堂にたどり着くまでのエピソードを加筆)


16歳で親から自立。友達とおでん屋を始めた

 中野の上高田で母が薬局を開いて2年くらい経ったころでしょうか、中目黒、さらに学芸大学の近くに引っ越しました。そして私は中学校を卒業して働き始めました。神田の小さな商事会社の事務員でした。新聞広告で自分で見つけたんです。目黒高校の定時制に通いながらですが、結局、学校には10カ月しか通っていません。私の学歴はそこ止まりです。

 ところが働き始めた会社が半年で倒産しました。6000円の月給をもらって2度くらいは親にそっくり渡して、1000円だけもらって。その中で300円は定期代、あとの300円はお昼にコッペパン一個を買う代金。ジャムを付けるときもあればピーナツバターの時もあった。あとは学費ですね。他にお金を使うゆとりはない、ぎりぎりの生活。でも自分で稼いだという喜びはすごく大きかった。家計を助けることができたというのも自信になった。うちの親はほめたりしないでクールなのよね。でも助かったにちがいないという自信はありました。

 母親の叔父が高田馬場で明治製菓の下請け工場をやっていたので、そのキャラメル工場で働き始めました。朝の7時半就業なの。月給4000円で残業手当が1時間40円。残業しないと具合が悪い空気があって、最低1~2時間は残業して学校に行きました。でも面白かったですね。キャラメルをちょっとかばんの中に持っていて、学校で友達と分け合いっこした。おいしいのよ。明治スコッチキャラメルと言ってね。チョコレート味の。とてもおいしいキャラメルでね。

 月給1万5000円のアルバイトサロンという広告が新聞で目に入って、応募したらすぐに採用になりました。銀座の紙パルプ会館の地下にナイトクラブがあって、そこで働かないかと言われて。レストランなんだけど夜だけ小さいナイトクラブになるんです。そこで少しだけ働きました。でもそこへ来る女の人たちが厭世的、というか投げやりな雰囲気があって、あんまりこういう空気のところで働くのも考えもんだなというのもあって、次は喫茶店で働くようになったんです。

 歌舞伎座のはす向かいくらいにある喫茶店でした。そこの主人が韓国人の夫婦で、下北沢で友達がスナックみたいのをやるから、そこで働かないかと言われた。今で言うバーみたいな感じです。下北沢はその頃田舎じみたところだったの。興味で行ったら閑散としたお店でしたね。でも住まいを補償してくれるというので働き始めました。そこで一緒な部屋になった女の子が富山・高岡出身でした。私と話が合って、毎晩のように彼女と話をした。私より7つ年上で、弁護士の娘さんでした。

 その友達と一緒に、高校一年生の時に渋谷でおでん屋を始めました。その頃はもっと小さい子が靴磨きなんかをやっていましたから。私も靴磨きをやってみたいな、と思ったりもしました。追い詰められてではなく、興味ですね。

 その頃は外国文学、例えば「レ・ミゼラブル」とか「アンクルトムの小屋」とか、海外の名作を図書館で読んでいて、そこにある明るさみたいなものを感じて、世界が開けていたのかもしれません。それと戦後に民主主義が入ってきて、主権在民とか自由とかいう言葉が飛び交ってたころでした。選挙権が女性に与えられて数年経ってましたよね。そういう世の中の空気の影響も随分受けてたのかなと思います。

 親の世代とは随分違っていたのでしょう。最初は堕落したんじゃないかと心配したようです。いわゆる水商売ですから。でも自分では「水商売って何だろう」という感じだった。振り返ってみると、そのころの経験はマイナスどころか、プラス以外の何物でもないですね。

 今考えると、一緒におでん屋を始めた彼女とはけんか別れのようになったんだけど。彼女は当時23、4歳で、日活のライトマンの恋人がいて、いつもいなくなるのよ。おでん屋というのは支度が大変なんです。負担が私の肩に掛かってきて、弟が手伝ってくれたりして。友達も手伝ってくれましたね。一人になったけど、それはそれで楽しかったです。

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渋谷駅のガード下「大和田胡堂」と呼ばれる飲み屋街

 そこが仮設物件だったから長くやれないのはわかってたのよね。屋台に根を生やしたような。長屋で組合もありました。三筋くらいの町になっていて「大和田胡堂」と言いました。渋谷の井の頭線のガード下でね、みんなが懐かしがるような場所ですよ。井の頭線の改札口から雨に濡れないで私の店に来られるような場所でした。

 角には若い男が3~4人でブタの下ごしらえしてるの、ミカン箱に座って。ブタの鼻やら足やらをさばいて、毛を抜いたりね。夕方、開店までの間たむろしてね、通るとひやかしたりするんです。じろじろ見たり。大和田食堂の真ん前でした。ガード下に通りがいくつかあってね、長屋みたいのが100軒以上並んでました。15軒か20軒ずつくらいがベニヤ板一枚みたいのを仕切りにしてね。私のお店は二坪2号7席だったけど、そういうのがずらーっと三筋か四筋が並んでて。

 その突き当たり共同便所があって、5人くらいは入れるような。それが危ないんだよね。おっこちる人がいて。うちのお客さんで東京工業大学の学生さんで、酔っぱらって落ちた人がいた。仲間で引き上げて、くさくてしょうがないでしょ。それを明治神宮に引っ張っていって、噴水だかなんかで洗ったりなんかして。生身の人間のどろどろした生活がそのまま差し出されてる感じですね。水口さんという人ですよ、今でも覚えてる。

 長屋の中には私くらいの子がいましたよ。ほんのお隣の人とはお話したりしましたね。暴力バーみたいのやってて、お客をつかまえに行くんだよね。安藤広重の版画「東海道五十三次」の中に、客の荷物をつかまえて引っ張る力持ちの女の人が描かれてるんだけど、あれにそっくりなことをやってんだよね。客の荷物を取って自分の店に駆けこむの。客がかばんを取り返そうと入ったら、(テーブルをドンとたたいて)いすに座らされて、前にビールやなんかを開けて出して、自分も飲んでね。隣でそんなことやってんのよ(笑)。暴力酒場っていうの?

うちはおでん屋だから客引きは考えたことがなくて。のれんがただぱたぱた揺れて、お客さんがいない日も最初のころはあったけど。でもだんだん人が来るようになって。そしたら近所の人が「あそこの店は客寄せに行かないのに、自然に入るのはどういうわけだ?」って評判になったみたい。おでんがおいしかったらしいから。

新宿2丁目の名店でおでん作りを習った

 おでんは習いに行ったのよね。新宿2丁目の赤線にね。おでんの老舗の名店があるというので、高岡出身の友達とノート持って一生懸命に習いに行った。屋台なんかの人にも聞いたりね。

 おでん屋を始める一番最初の話は面白いのよ。最初は屋台やろうと思ったの。地面にちゃんとくっついたお店できると思わなかった。屋台のあの生活は面白いなーと思ったの。車引っ張っていけば、どこででもできるわけじゃない。友達にその話をしたら乗り気になっちゃって。

 屋台を何でやりたくなったかっていうと、下北沢の前に池袋の鬼子母神というとこの近く、にぎやかな方と反対側の東口から15分くらい歩くところに下宿してたんだけど、夜遅くに帰る途中、屋台がちょんちょんと出るんですよ。その中に「自笑軒(じしょうけん)」って書いた屋台があって。おじいさんが一人でおでん屋をやってた。私はたまに寄って、話し掛けたのよね。「おじさん、こんなことやって生活大変でしょうね」というようないろんな話をして。「私でもこんなことできるかなあ」って聞いたら「あんたがやればお客が絶対来るし、生活できるわね-、自由だよ、この仕事は」って言われて。結構親しくなってね。

 屋台をやろうかという話を、友達が下北沢の店の客にしゃべっちゃったのよね。その人が「自分は池袋西口の何とか組っていうやくざと顔が通じてるし、そんなところでやるのは誰か後ろ盾がないと大変だ。俺がなってやる」と言うので、信じ込んじゃったのよね。私たちより4~5歳上の立教大生だった。その学生に二人で都合したお金を合わせて5万円預けたのよ。そして「屋台がちゃんと準備できたら案内するから」と言われたんだけど、待てど暮らせど連絡がないのよ。

 おかしいと思って、その人がうっかり実家の電話番号と住所を彼女に教えてたの。そこに電話したら親が出てね、「えー、うちの息子がまた何かやりましたか」みたいなことを言われて。それで「東松原のうちに来てください」というので、二人で出掛けていったの。そしたら父親が東松原の警察官だったの。前にも母親が大事にしてた琵琶を持ち出して売っちゃったとか、結構などら息子だったみたい。「私の警察に来て調書取らせて下さい」って言うの。お母さんが付いてきて、どっかに電話かけてるの。「ごろうちゃん頼む。またあいつがやったのよ」って。

 ごろうちゃんは母親の弟らしいんだけど、そのごろうちゃんが大和田胡堂で「大関」っていう酒屋をやってて、結構人がいっぱい来て有名な店だった。そのごろうちゃんが呼ばれて、「あんたら、こんな若い身空で屋台やろうなんて珍しいね」って言われて。そいで「店をやりたいなら、私の知り合いで店を何年もやってきたけど子どもができなくて、でも10年目にやっとできたんで、今度は失いたくないから店を休んでるのがいる。そこを借りてあんたたちやってみたら。全部面倒見るから」って言ってくれて。そいで開店までの面倒をずいぶんかけたんです。「お金を返すことはできないけど、手伝うことならできる」って言ってくれたんです。

 築地への手だてとか、氷やさんの紹介とかしてくれて、そばにそういう人がいてくれて心強かったです。お金は返してくれなかったけど、おいのことで負い目もあるだろうし、ろくでなしの息子を持ってお父さん、お母さんもかわいそうだなと思いましたね。

 人の縁って面白いよね。屋台引っ張れてもまた面白い展開になったかもしれないしね。靴磨きをやろうかなと思ったこともありましたよ。一人で生きていくための手だてを考える。飯食うために人に支配されるような仕事もたくさんあるじゃない。とんでもないのがね。職安に行って紹介された仕事でも、くだらないものがいっぱいあったし。生地の行商を請け負ってやろうと思ったら、純毛だと偽って化繊を売り付ける仕事だったり。それもね、純毛のところがあるのよ。そこを燃やしてにおいをかがせて「これが本物だ」って言ってだますの。それはあかんと思った。踏み出せないままおさらばしたけど。

 だから世の中は一筋縄ではいかないと思ったよ。思ったけど、マイペースでやれるっていうのがおでん屋はよかったですよ。おでん屋の名前は、前の店が「呑安(のみやす)」だったんですけど、これ嫌だなー、ださい名前だなと思って、もっと乙女チックな名前にしようというので「小夜(さよ)」って付けました。赤いちょうちんを二つ作って、「小夜」って書きました。

 ガード下には露店が出ててね。その露店で見つけた本が私の一生の伴侶になりましたね。樋口一葉の日記です。10円くらいで売っていた。それと太宰治の「走れメロス」。同時期に読んで、すごく救われたというか、素晴らしいなと思った。そういうことに興味を持ってる人たちが店に出入りするようになって。東大生でも慶大生でも、お金がない人がいっぱい来ましたよ。本当にない人にはおまけしちゃったりして。

店の名は「小夜」。いろんな人と語り合った

 おでん屋を始めたのは16歳の時です。わりあい老けてみえたみたい。20歳とか23歳とか言ってごまかしてた。定時制高校を休学して、どうしようかって悩みながらね。ただ漫然と行くよりもと、英語塾に行きかけたこともあった。後から考えると学問的なことは全部中途半端になりましたけど。向学心がなかったわけじゃないんですよね。何かこのままじゃだめというのは感じていたので。

 そこへ硲先生との出会いがありました。店には劇団民芸の人々や、日活映画会社のプロデューサーとかいろんなお客さんが来て。私、映画の方に引っ張られそうになったこともあったんですよ。その中でも素晴らしい人に会いましたね。「キューポラのある街」(1962年公開)の浦山霧郎監督。まだその映画を作る前に助監督時代に来ていました。日活の大塚和さんというプロデューサーもよく話を聞いてくれたり、聞かせてくれたり。紳士で素晴らしい人でした。

 おでん屋はカウンターだけでで、10人座ればいっぱいになる。一人で全員の相手ができるんです。目の前で「だれがいくつおでんを食べて」とか書くのは感じが悪いと誰かに言われて、それからは必死で覚えましたよ。この人は何をいくつ食べたとかね。一回来た人は必ず名前を覚えて。必死になると人間はできるものですよ。だから親は想像できない世界を子どもは開拓するものです。

 親は私が不良になったと思って家庭裁判所に行ったりしたの。BBSというのがその頃ありまして、道をそれそうになった少年少女を伝導するのね。大学生の男女が私に付いてくれて、こちらのことを聞いてくれるわけよ。それをまた親に報告するらしいんだけど。それで親は安心したらしいです。

 おでん屋の二階に三畳一間で暮らしていた。押し入れが付いてました。その大和田胡堂というところは問題もしょっちゅう起きるところで。私のおでん屋が角から2軒目くらいの、人がしょっちゅう通るところでした。近所にやくざの夫婦が下宿していたり。ある時、殺人事件が起きて、うちの戸に返り血がかかっていたこともありました。衝撃受けたこともありましたけど、すべてが実生活だったから、おもしろかった。ハラハラしながら過ごした時期でもあるんだけど。でも組合が雇ってる夜回りのおじさんが頑張ってて、不祥事があればすぐ警察に行っていました。そのおじさんもすごく気にしてくれて「困ったことあったら言いなさい」と。組合は善しあしなんだけど、いい面もあるんじゃないかと思いますね。

 おでん屋さんは18歳まで2年くらいやっていました。結構繁盛しましたね。あの店は人を使わなくても自然とお客が入ると言って。おでんがおいしいのと、若い女の子が入れ替わり立ち替わりやってるみたいな印象があったから。一度来た人は必ず来るみたいな、友達のような雰囲気も生まれました。東京工業大学の一学年の一クラスがほとんど常連になったこともありました。その代わりいたずらもされました。トイレに私が行ってると、串になってるおでんがなくなっちゃってたり。


 でもその頃の人たちの中には今でもお付き合いある人います。おでん屋を始める前に「はるな」という喫茶店に勤めていました。築地の市場に近いんですけど、そこの常連に明治大学の学生がいてね。英語の新聞を広げ読んでるのよ。おかしかった。鎌倉に住んでて、今でも付き合ってますよ。

 天の橋立から叔父が出てきて、店を探し歩いたけど見つからなかったそうです。それから後に叔父が一人で訪ねてきて「なんでこんなことやんなきゃいけないんだ」と言われて。でもその感じ方にちょっと違和感あったんですよね。私全然不幸じゃないし、むしろこうやって生活立てられるっていいことじゃないかと、叔父を説得した覚えがあります。

外務省の美術同好会が縁で

 硲先生はお酒を絶対吞めない人なので、おでん屋に食べに来たことは2、3度あるかもしれないけど、ほとんどは私の方から先生の家を訪ねて、いろんな面白い話を聞いたり、物を見せてもらったりしていました。だんだん先生に間に合うことがあれば、私は東京の真ん中に住んでいて、先生は三鷹のはじの方でしたから手伝うようになりました。ある朝、お店を開けて築地に仕入れにいこうとしてひょっと見たら、先生が店の前で挿絵の場面に使う写生をしてるんですよ。「先生!」って言って声掛けたこともありました。

 硲先生のお弟子である大倉道昌さんが店に毎日のように来ていました。大倉さんは外務省の美術同好会の先生をしていた人です。硲先生が東京芸大で六年間教えてた時の弟子でした。学校を卒業してからも自宅に出入りするくらい親しい関係でした。「自分が一番尊敬する絵の先生がいるんだけど、君が絵が大好きだから、硲先生を紹介したい」と言ってくれたんです。大倉さんとは、私が外務省の美術同好会の人物素描のモデルをしていたことから「あなたは何をしてるんだ」となって知り合いました。大倉さんにつないだのが丹羽さんという外務省渡航課の人で、美術同好会の世話人をしていました。先生の美術館をつくったって言ったら、ここに訪ねてくれたこともありました。

 その時ばおでん屋で生活ができるか不安な状態の中でやってましたから、モデルのアルバイトは条件が悪くなければやろうかなという気持ちです。富士フイルムの写真のモデルをしたこともあります。富士フイルムのモデルしてる時に友達になった人がいますよ。荒木田麻耶という芸名でね。本名は児玉武子と言いました。若尾文子と一緒に大映でデビューしたの。ここにも来たことあるのよね。一緒に平泉寺に行ったりしてね。(続く)

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