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栗というプレッシャー

ここしばらく、酷暑だ猛暑だと大騒ぎな毎日でしたが、あら。
ここに来て、朝晩に涼風が吹き始め、帰り道には虫さんが奏でる音楽を楽しめるようになってきました。

スーパーマーケットの顔ぶれも、いちじく、だとか、シャインマスカット、だとか、秋の到来を告げるものたちが揃い始め、そ、そ、そして、遂に来た。秋の味覚の代表選手、栗も陳列棚に並んだのです。

私にとって、栗、クリ、くり、というのは、いい意味でも悪い意味でも、心を騒がせる憎いやつ。
食卓に「栗ご飯」として出せば、それはそれは歓迎され、子ども達も夫も「おー!栗ご飯!」と大喜びすること120パーセント。家族の喜びは、私の喜びですから、「ひひひ、今夜は栗ご飯にしちゃうぞー」と意気込むわけです。

しかしながら、その前に立ちはだかるのが、「皮むき」という作業。
これが私にとっては本当に高くて厚い壁で、「栗ご飯にしちゃうぞー」というヤル気が、皮むき作業という現実を前にして、嘘みたいに萎(しぼ)んでしまうのです。

家族の喜ぶ顔を思い浮かべ→栗ご飯にしちゃうぞー
皮むきを思って→気持ちが萎える

ということを何度も繰り返し、そして同時に、今日明日の自分に問いかける。
「今夜か明日に、皮むける?」
「うーん、鬼皮だけなら行けそうだけど、渋皮も同時は、無理かも」
「今日はKの習い事のお迎えがあるし、鬼皮むくなら、夜だな」
「夜かあ、疲れて寝ちゃうかも。明日、まとめて同時にむけるだろうか…」

そして、ハッと我に帰るのです。「栗が店頭に並ぶのは、今だけだ!」と。
以前、「今日は皮むきできないなあ」とズルズルと購入を先伸ばしにしていたら、シーズンが終わってしまったということがあり、その時の悔しさを思い出したのです。

・皮を剥く作業は嫌だけど
・栗は食べたいし
・家族の喜ぶ顔も見たいし
・早くしないとシーズン終わっちゃうし

と頭の中でぐるぐるぐるぐる、思考回路がヒートアップしそうになりながら、「私たちは、今だけ限定の秋の味覚だよ〜」(←栗の声)という囁きに背中を押されて、「えい!」と買い物かごに栗を1パック、入れたのでした。

* * * * *

そして我が家。
栗がキッチンに置いてあるのを見るたびに、「やらなきゃ!」と焦る。でも、やりたくない。でも、やらないと。
子どもの宿題かよ、、、と自分で自分を冷笑する。

何が面倒くさいって、渋皮をむくのが本当に骨が折れる作業だと思うの。

鬼皮はまだいい、というより、むしろ楽しい。ちょっと切り込みを入れれば、パキッと割れてツルッとむけるから。

さー。むくぞ! 栗ご飯だ!

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