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子どもをいかに放っておけるか

はじめに断っておけば
ここで言う「放る」は
信頼をもって「放つ」ことだ

大人はみんな子どもだったことを
忘れてしまう

ついつい 見えている限りの善いことを
こどもに願望として押し付け
時には自分の足りない何かを
こどもで埋めようとする

わたしは
子どもに感謝しなさいと
押しつけたり
夢を描きなさいと
書かせたりすることに違和感を抱く

学校の先生たちが努力をされていることも
承知の上で
(現に親が学校に期待しすぎる現状が
先生を追い込んでいる事実は否めない)
親に見てもらうための運動会や音楽会も
どちらかと言うと苦手だ
親としては見せてもらって嬉しいし
感動もするんですよ

それらの本質はとても大切なことなのに
行動としては表面をなぞっているものにしか
なっていないのではないかという
懸念がとりきれない

感謝をすることは、素晴らしいことで
ささいなことに感謝ができれば
生きている喜びや自分を尊ぶことにつながるし

夢を描き、それをリアリティをもって描くことは
今という現実をどんどん創造していくことであり
これもまた生きる実感や自己信頼を育むだろう

自分が人と比べてうまくできることや
できないことを
あらゆる分野で知る機会をつくることは
自己理解を深めて
他者とともに生きる基盤をつくるし
アウトプットは本来自分だけでは
感じきれない共鳴や共振の素晴らしさを
感じる機会になるだろう
人によっては

この人によってはが大事で
集団の中ではすべての個の思い通りにはならない
だから反対に
個の想いも集団の意図する想い通りにはならない
これが圧倒的に欠けてしまう前提だろう

そして
するべきこと、やらねばならない行事として
誰のために、何のためにやっているのか
あたりまえのことの中に押し込められては
いないだろうかと思う

感謝や夢を抱くことの大切さを伝えるならば
伝える側がリアリティをもって
それが自分の現実に与える影響力と喜びをまず話し

10年後の未来の話ではなく
今日明日の素敵な自分を描き
そのための行動を考えてみるといい

親に向けた感謝ではなく
自分の暮らしの感度をあげて小さなありがとうを
共有するといい

そんな小さなことの積み重ねなんじゃないか
とわたしは思う

ただ
そんなことより何よりも
子どもは放っておいてくれ!
というのが本音だなあ

わたしもよく息子に
「大丈夫だから!放っておいて!」と言われてら
はたと自分の行動に気づく
自分のためにやっている行動に

いかに無関心にならず
過干渉にならず
放ったものが相手がどう受け取るかを
操作しようとせずに放っておけるか
見守るって言ったら言葉はいいけど
それもこちらのエゴかな

このことを前提においた大人の周りにいる
子どもは自分を表現できる

何かを構えて、さあ、やりなさい!よりも
日常の中で子どもが受け取っているものが
たくさんある

学校が悪い、教育が悪いとか
不平不満は無意味
政治もそう
違和感はもてども

すべてわたしたちがつくっている
他人事ではないのだから
すべてわたし事

わたしも分かっていない
だから分かろうとする
知ろうとする
真実を追求するのではなく
自分の中のマトリックスの世界を
知ろうとする

わたしは世界を暗くは捉えていない
そこから、自分は社会でどう動くかは
無限の可能性があるのだから
ただおもしろがっている

わたしは教育の世界に入らせてもらいつつ
微力ながら明るい未来を
若い人たちといっしょにつくっていく

家庭であろうが
学校であろうが
私たちは子どもの無邪気な芽を
大事にしていく
尊い個のいのちを
つないでいく

それはつまり
つながれてきた自分のいのちを敬い
生きていくこと


それに変わりはないのだから
否定するのではなく
同じ方向を見ている人とともにつくっていく

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