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今年生まれた腐った気持ちと、新年を前にして、キツゥと思い、そしたら太宰治の女生徒を思い出した。

小さなことが積もりだして、だんだん大きな嫌な気持ちになってくる時に思い出すことがありまして。多分高校生の時に読んだと思う、太宰治の女生徒。高校生の頃、ちょっとナルシストな文学少女に憧れていた私は(他にもいろいろ憧れるものあったが)、ちょっと背伸びをした文学を読んでいた。というか、学校の試験に出てくるような小説だったり、読んでみてわかったつもりになっているだけなのに、「読んだ」というだけで箔が付いた感じして、とりあえず読んでいただけの話がたくさんあった。その頃読んだ本の内容って今まさに、全く覚えていない、というのが、いかに私が内容の薄い読み方をしていたか、という証拠のようで、文章を書いた作家や、出版に努めた方達に申し訳ないです、と思う。

そんな中身の薄い読み方をしていた私の頭の中にも少し傷を残した、というか、跡を残したお話の一部、というのがありまして、それが、女生徒の「コトン」という表現。

女生徒という話自体は高校生ぐらいの思春期の女生徒の頭に毎日湧いてくる感情と日常の出来事を切り取って記録したもの、というのが私の解釈で、それ以上の文学的な読み解きを述べられても、はぁ。。。という感じなんだけど。

そのお話の初めのほうに、この「コトン」という表現が出てくる。それは彼女が、あるふとした時に、この瞬間は過去にもあったし、未来にも同じ「コトン」とこの瞬間が訪れて、私はそれを認知する、といういうふうに使われているんだけど。私が高校生だった時からもうすでに25年以上経っているので、改めて女生徒を検索してみた。そしたらこの「コトン」ってお話の中では小さい扱いで、なんで当時高校生だった私にそれほど印象を残したのかしら。。。と思った。

多分、高校生だった私には、日常の中にするりと現れる少しだけ非日常な感覚(トワイライトゾーンみたいな)と、自分だけがそれに気づいている、という自己満足な特別感が「コトン」という表現に含まれていて、だから大人になった今でも覚えているのかな、と思った。なんだけど、年齢を重ねるにつれて「コトン」は非日常を表す表現というよりは、自分の中にあるけど、どうも言葉に表しにくい、というか表すのが面倒だ、という気持ちを表現する言葉に変わっていったかもしれない。何かが少しだけずれてるけど、いちいちそれに腹を立てるのも面倒だし、大人げないし、と流しているうちになんだか砂利のように溜まってきている気持ち。

そんなちっちゃな砂利が溜まり積もっている、ということに2020年のCOVIDパンデミックが起きなければ、もう少し長く目を背けていられたかもしれん、と思うのだ。「コトン」という違和感が「ゴトン」という重さに変わったのが今年だったと思う。それも今年後半。

いくら自分の家族でも、つまり主人(元々は他人だし)と息子ちゃん(血はつながっているけど、関係としては9年しかない)でも、毎日寝る時間も含めてほとんど24時間、短ければ22時間ぐらい一緒にいると、小さなやるせないことが積もるなぁ、そして、外に出て、女友達だったり、仕事場の気の合う人たちとどうでもいい話ができない状況だと、イラっとすることが積もりすぎるのだ。自分の中で積もらせるのはいけない、と思い、それを口に出して相手に伝えると(主に主人)、向こうもテンパっているからお互い油に火を注いでいるようだ。そしてお互いに、「チッ、ケツの穴がちいせぇよ。。。」とモヤモヤを抱えているのだ(正確には主人がどう思っているのかは知らんが、私が主人に対してムカついた時はこう思っている、ということだ)。

そんな薄暗いモヤモヤした気持ちが積もっているぜ、ということに気が付いたのが、皮肉にもクリスマスの日だった。今日だけど。仮にも世の中がMerry でHappyになっている日に、プレゼントを開けて喜ぶ息子ちゃんを見て、わぁ~ 良かったねぇ、サンタさんが来てくれたねぇ、とか言いつつ、うわぁ、口先だけで言うてるわぁ。。。とその場を白けた目で観察している私がいるのを無視できなかった。これこそ、「コトン」が、「ゴトン」に移り変わっているのを自覚させてくれる瞬間である。

こういう気持ち、たまに来るんだけど、今年は頻繁にやって来る。これはもれなく私の世界が小さくなってしまったからじゃないか、と思う。常に大きな刺激が欲しい、というわけじゃないけど、例えばハイキングに行きたいときに行けて、ヨガに行きたいときに行けて、外に食べに行きたければ行けて、会いたい人に会える、そして一人の時間が欲しければ一人になれる場所がある、というのは贅沢なことではなくて、私が日常生活を健康的にこなすためには結構必要なことだったんだね、と実感する。そういうものが無ければ今ある物に目を向けて感謝することができないのか?言われると非常に心苦しいが、それほど私は謙虚ではないのかも知れない。だって、いくら今ある物に目をむけて、ありがとうございます、という気持ちは持てても、その他の私が楽しいと思う物が無いと、心がすさんでいくのだ。まさに「コトン」が積もりすぎて、ゴトンと堰の向こう側にあふれ出していくような感じがする。

そんな風に感じている人もいるんだろうか。もう新年がすぐそこまで来ているし、気持ちを新たに、と思う一方、一週間で今年一年で積もり積もった小石がきれいに流れて行ってくれれば、そんな楽なことないわ、と思う私もいる。よくよく考えれば、マジで4月ごろはパンデミックも、おうちからのリモートワークも長くて3カ月だろう、と高をくくっていた。それが9カ月続いたよ。そしてこの先も6か月続いてもおかしくない状態だ。

新年を迎えるにあたっての心構えって、希望に満ちてるべきなのかな、と思う気持ちがある一面、実際問題、希望にばっかりすがってらんないよ、というか、この腐った気持ちも昇華してあげないと新年どころじゃないよ、とマジで思う。





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