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母ともやしの根とわたし

部屋とワイシャツみたいなことを言い出した私です。

このStay at homeの中で持て余してもない暇を使ってnote をはじめてみたわけです。

今日は、もともと予定していた作り置きの日。

家にあるもので何を作ろうか。そんな雪の日。

祖母は東京に雪が降るようになったら、津軽に春が来るんだよ、って言ってたっけな。雪月花なんていう優雅な降り方でなく、のつのつと降る雪の中、やるべきことはたくさんあるのにやりたくなくて、昨日に引き続きアマプラ三昧。

今日は、リトルフォレスト。

岩手の田舎でのはなし。

私は、津軽に生まれ育ったけど、あんな自給自足はしたことないし、あけびだって食べたことはない。庭にぐみの木はあったし、ワラビを山に採りに行くのは年中行事だったけど。笹竹だって大好きだ。ミズは最近好きになった。

丁寧な暮らし。そんな感じの映画だった気がする。

丁寧な暮らし。そんな言葉がもてはやされる昨今。自分だって嫌いながら、目指している気がする。丁寧な暮らしぶってみたくなるのだ。

例えば川崎の端っこでミズを見つけたときの、あ、ミズ。って気持ち。ミズが食べたかったんじゃない。地元の野菜を見つけて丁寧に暮らしてるぶってみたかったんだと思う。地元じゃこうやって手間かけて食べてるんです。みたいな。

でも、見つけたときは、なんだか嬉しかった。あの気持ちはきっとミズが身近にあった人にしかわからないかもしれない。あんまり食べたこともないのに買って。下処理の仕方も知らないのに買って母に電話をした。

ミズ買ったんだけど、どうやって食べるの?

実家にいる時にも絶対に食卓にあったはずのミズなのに、私は下処理はおろか食べ方さえ知らなかった。

Google先生と母に頼って、どうにかミズを食べた。塩昆布と生姜で和えた。なんだか夏の味だった。いつのまにか私の舌は鈍くなったのか、山菜が美味しくなった。地元の食べ物が恋しくなった。

歳を取ったのだ。

津軽でたけのこといえば笹竹で。これは小さい頃から大好きだった。いとこんと豚肉を炒めたやつ。お味噌汁、おでん。

話は逸れるが、たけのこといえば本当のたけのこは特別だった。母の実家の近所の方から送られてくる採れたての立派な孟宗竹。たけのこが届くや否や、大きな、それは大きな鍋で煮る昼下がり。そのたけのこを祖母はたけのこごはんにしてくれる。このたけのこご飯が私は世界で一番好きだった。祖母が台所に立たなくなってしまった頃、祖母の独壇場だったたけのこご飯市場が母のものになった。初めて、母のたけのこご飯を食べた。母は八王子の人だから関東風のたけのこごはん。それはそれで美味しい。でも、あー、私のたけのこご飯はおばあちゃんのだ。そう思った。そして、誕生日の度に台所に立たなくなった祖母にお願いして、祖母のたけのこご飯を作ってもらって、ああこれこれ。と思ったのだった。

今でも、お味噌のおにぎりとたけのこご飯は祖母のが一番だ。母ですらそれを超えるのはなかなか難しいと思う。

川崎でもたけのこは採れて、農家から朝採りのたけのこを買ったりする。わたしが作るのは、母のたけのこご飯だ。祖母のたけのこご飯にいつかチャレンジしたいけど、まだその域に達していない気がするのか、思い出の中に閉じ込めておきたいのかわからないけど、まだ作らないでいる。

そんなメランコリックな気持ちになりつつ見たリトルフォレスト。母の味の手間について描かれる。

わたしの母の味。こればかりはたくさんありすぎてどれが一番とも言い難く、まだ存命だから実家に帰るたび、電話で話すたびにレシピは聞くし、料理の話をする。ま、絶対に勝てないのだけど。リトルフォレストで、主人公が青菜の炒め物を作る時に、ふと気づいて筋をとる。そうすることで母の味に近づき、手間を知る。

その様子を見て、私も母を思い出した。

私は母の春巻きが好きだ。帰るたびに作ってもらう。最近は一緒に台所に立って手伝う。母ももう65だ。いつ食べられなくなるだろう。吸収すべきことはたくさんある。だから一緒に台所に立つ。

そんな母の春巻きにはもやしが入っている。

母は、春巻きの日の昼下がりテレビを見ながらもやしの下処理をする。

根と芽をとる。

ひたすらとる。

一袋とる。

手伝う。

あんたもやると味違うわよ?

そう言われても、私は自宅に帰ると面倒で袋からザバーって使う。焼きそばも、ラーメンも。

今日、もやしのカレー炒めを作ろうと思った時、リトルフォレストが頭をよぎった。根と芽をとってみよう。

水に放したもやしを一本一本とって、芽と根をとる。

正直にいえば終わりが見えなくて途中で嫌になった。袋ごとやればよかった。いつも通り。それで十分に美味しいではないか。

どうにか終わって作ったもやしのカレー炒めはいつもより端正で、味も雑味のない味だった。母にそれをいえば、自己満足なんだけど味が違うよね。と言う。

私は次に根を取るかと言われれば、取らない気がする。面倒だし、肩がこるし、時間がかかるし、なにせ食べるのは私だけだ。

母が根も芽も取ったのは本当に自己満足なんだろうか。

あいつは気付いてないだろうけどね。

母のLINEはそう締めくくられている。

父は母が時間をかけて、根も芽もとっていることを知らない。そして、取らなくても気づかないかもしれない。それでも母がやるのは、自己満足なのか、それが食べる人がいるということなのか、独りが長すぎるわたしにはわからない。

今日食べたもやしは、雑味のない端正な味がした。


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