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ざらめ 1


#創作大賞2023 #恋愛小説部門

あらすじ
仁科千代子は人気デパートの外商部に勤務する五十路のキャリアウーマン。年下のイケメン夫の逆玉不倫で離婚、娘は海外留学中、近づく老後に向け、ひとりで生きていく生活設計を考え始めていた。そんな時、バー「ざらめ」で知り合った斉藤晃司と知り合い、久々に関係を結ぶ。しかし斉藤との日々は長く続かなかった。突然シンガポール赴任の指令がおり、未知の国でのひとり暮らしが始まった。

 会社が用意した、想像以上に瀟洒なハイライズのコンドミニアムでのエレベーターで三十代の美青年のアレックスに出会う。強引なアレックスに抗えず、彼の性の魅力的に溺れていく千代子、入念に計算していた生活設計が大きく外れていった。

本文

Calculation 計算 

更年期を過ぎた女が恋をすると、その歳でまだ女を捨てられないハシタなさとイヤラシさがつきまとう。
セクハラで矢面に立たされるのはいつも男と言うなら、年増の女は背中から男以上に罵倒され、嘲笑されるのだ。そして、その恋に失敗すればもう後戻りは出来ない。だから、計算してしまう。老後の生活、貯金、安定した生活を。

私、仁科知代子は五十二歳。三年前まで夫と白金に住んでいた。千葉の銚子から内陸に入った田舎育ちの夫はとにかく「カッコイイ」生活に憧れていた。彼が大学を出た年はバブルが燃え尽きる寸前、最後の力を振り絞って、消えゆく泡にしがみつこうともがいていた時期だった。そういう意味では私は、金は天から降ってくる時代の申し子として、思春期から青春時代を送った最後の世代なのだ。
でも私は夫をどこかで見下していた。私は東京育ちで、大学の偏差値も上だったし、マンションを買う時、夫がどうしても住みたいと譲らなかった、地価の高い港区の住まいも、窮屈だと散々文句を言った。
私の実家も港区である。と言ってもサラリーマンの憩いの街、新橋。我が家は地下鉄の御成門に近い新橋六丁目、東京タワーの徒歩圏内であり、新橋烏森口から歩いて十分、下町の風情が残る小さな商店街のごく普通の薬屋だった。それを東京であればどんな小さな木造でも億の価格がついたバブル期に、臆病な父を説き伏せ、母が思い切って小さなビルを建て、一階を薬屋、二階と三階を貸事務所、四階五階を自宅にした。バブルが弾けた時、土地が下落して一時期どうなることかと心配したが、愛宕の再開発で再び土地が高騰し、今は弟に薬屋を継がせ、孫が出来た機会に爺さん婆さんは熱海で悠々自適の隠居生活である。
父は真面目を絵に描いたような人で、石橋を叩いて渡るタイプだが、母はよく言えば直感力の人、悪く言えば後先考えず、閃きで行動する楽観主義で、失敗しても笑って受け流す。なぜか弟も私も父の性格を受け継ぎ、弟は素直に薬学部に行き薬屋を継ぎ、文系の私は薬屋を手伝わず、英文科を出て百貨店に就職した。ちょうどバブルが弾けて先が不透明な時期でもあった。弟と相談して、家族が別の職業に分散した方がリスク回避もできると考えて、安定した企業を選んだのだ。
夫はその百貨店の五つ下の後輩だった。トップレベルの大学卒が多い職場で、彼は格下の大学出だったが、新人研修が終わってすぐに外商に配属されたのは、そのルックスでマダムたちに気に入られることを人事が想定してのことだったのだろう。実際、営業成績は常に上位だった。そうやって夫はどんどん垢抜けていった。でも外見や車、時計など、目に見える物に異様に執着していく夫に、私は違和感を覚えるようになって行った。私は出会った頃、見た目とは裏腹に素朴なルーツを持つ彼が好きだったのだ。私も仕事柄、高価なブランドに囲まれ、影響を受けなかったと言えば嘘になる。でも銀座の隣とはいえ、庶民の街で生まれ育った私のルーツは、デルボーのバッグを下げロジェ・ヴィヴィエの靴を履くようになっても、根底にあるものが変わることはなかった。
もちろん、私は彼に恋をした。鼻筋の通った整った顔にすらっとした高身長のボディが加わって、かなり人目を惹く男だったのだ。言い訳するわけでは無いが、歳下のそんなハンサム君に言い寄られて落ちない女はいないだろう。
私たちはラッキーだった。百貨店不況の波の中、いくつかのデパートが倒産、合併されていくなか、我々の百貨店は一人勝ちだった。結婚して娘が生まれ、仕事と子育てに追われながらも日々充実していた。平凡だけど幸せだったと思う。しかし長い結婚生活で夫が透明人間のように希薄になっていった。家族というステイタスで認識してるだけの、当たり前過ぎて、いてもいなくても気にならない存在。
油断していたのだ。
私がそんな気持ちを抱いたからなのか、彼が華やかで贅沢な世界に囲まれて仕事をしていたからなのか、突然夫の方から「目指す将来が違い過ぎるから」と、離婚を切り出された。仕事に集中したい、結婚に向いていない、ありきたりな理由に、私は疑う気持ちなど微塵も持たなかった。自分と同じように夫も私に違和感を感じていたのだ、そう素直に納得した。ショックじゃないと言えばウソになる。空気のような存在であっても、やっぱり彼を愛していたと思う。でも自分の方が歳上だから、引き止めるのはみっともないという変なプライドがあった。離婚しないで、とは口が裂けても言いたくなかった。後で散々後悔するとも知らずに。
夫は自分の我儘で別れるし、農地を売ってまとまったお金が入った親から、生前贈与でマンションが買えると、ローンがあと五年で返し終わるマンションを慰謝料代わりに渡す、アメリカへ高校から留学していて、今年大学生になった娘の親権は私、ただし大学卒業までの学費と寮費は折半という好条件を出して来て、私は異論を立てず、夫の誠実さに感謝までして、離婚届にあっさり判を押した。
しかし夫はそれから僅か半年後に顧客の令嬢と婚約した。どうりでマンションなど、ぽいっとくれてやったわけだ。親からの生前贈与云々は真っ赤な嘘だった。婚約者の父親の白木吾郎は、都内の一等地にいくつもビルを持つ大富豪、星絵はそのご令嬢だ。後で同僚に聞いた話だと離婚成立前からただならぬ関係になっていたらしい。ふと、夫とセックスレスになった時期と重なる、そんなことも考えてみた。でも全て後の祭りだった。
相手は大口の顧客だから当然噂は耳に入る。立派なスキャンダルだ。けれど夫は咎められるどころか、その顧客が関連企業や友人を次々と紹介して行くので、成績はトップになった。私の方は実績を上げていたから、あからさまな左遷は無かったが、上司に呼ばれ、相手の気持ちを察して注意するようにと釘を刺された。何で私の方が注意しなくちゃならないのかと、心の中だけで悪態をついたが、全てが収まる場所に収まった。彼はいずれ富豪の婿養子として膨大な財産を引き継ぐことになるだろう。どう考えても貧乏くじを引いたのは私の方だったのだ。

喪失感と寂しさは夫が出て行った時はそれほど感じなかったが、夫の婚約を知ると、怒りと一緒くたになって怒涛のように押し寄せて来た。
激ヤセしていった私のやけ酒に付き合ってくれた友人伊藤麻里子にダラダラと愚痴っていると、
「とにかく食べなさい、その歳で痩せると伸びた肌はそのまま、たるみとシワになっちゃうよ。」
傷口に塩をかけられた。
「慰めるんじゃなくて首吊りの足を引っ張る気?」
「独身マーケットに戻ったんだから、そういうことも気にしなさいってこと。」
「散々着てたくせに、古くなってクローゼットに放置された挙句返品された服って感じ。もう売り物にならないし。」
「何言ってんの、この先一生独身でいる気?」
どうだろう。少し前までこの歳で離婚すること自体が想像できなかった。
「今は何も考えられないかな。」
「なんだかんだ言って、実はダンナのこと凄〜く好きだったんだね。」
麻里子がそう言って私の頭を撫でた。彼女は銀座にある老舗のインポートショップのバイヤーだ。私の勤務する百貨店とも取引が多く、仕事上で知り合い意気投合した。だからプライベートだけでなく、仕事絡みで会う機会も多いし、その辺の事情も熟知している。四歳年下だが聞き上手でしかも鋭い。教えてくれないが、結婚前に想像を絶する修羅場を潜ったと豪語しているのだ。
「彼を愛してたっていうより、家族としての形態っていうか、それを失った喪失感が辛い。」
「恵梨香も生まれて結婚生活二十年、そりゃ完全に家族だよねえ。」
「それに離婚されたことより、騙されたこと、嘘をつかれたことが悔しくて許せない。喧嘩はしたけど、浮気とかそういうの疑ったこと無かったから。」
「わかる、でもさあ、先方もよく親が許したよね。不倫から始まったかなり歳上のヤサ男との結婚なんて。」
「ご令嬢も三十六歳バツイチだしね。それにその可愛い箱入り娘が結婚できなかったら死ぬとか喚いたんでしょ、きっと。プリンセスは蛙にだって恋しちゃうわけで。」
麻里子が吹き出した。
「何それ、ディズニー?知代子さん、対抗して、触れるもの全て凍らせる女王様になりなさいよ。」
私も笑った。苦笑いだけれど。
「冗談はともかく、実際、お嬢は免疫少ないから簡単にオチるって言うし。」
「それに知代子さんのダンナは醜い蛙どころかイケメン、四十七には見えないし。ねえ、ご令嬢は綺麗なの?」
「う〜ん、すごく小柄で目も鼻も口も小さいお雛様顔。写真見る?」
「見たい見たい。」
私は携帯から写真を見つけて麻里子の顔の前にかざした。麻里子は携帯をひったくり、その写真をまじまじと眺めた。
「DNAは不細工だけど、湯水のようにお金かけてここまでのレベルに作ったっていう感じかな。派手顔の知代子さんと真逆っていうか、まあ、男が守ってあげたくなるタイプ、袋被さなくてもエッチできるわね。」
「何それ。」
「そこさえクリア出来れば彼女の顔と同じでお金が全て解決してくれるってこと。」
私は腕を組んで顎を乗せた。
「外商って現実離れした世界なのよ。世の中こんな桁外れの金持ちがザクザクいるんだって驚いちゃう。お金の感覚が二桁も三桁も違う。そういう世界にいるとね、自分たちのお金の感覚もどんどん狂っていくの。新入社員の頃は5万円のジャケットが高いなぁと思ってたのに、何年かすると十万円のジャケットが安いって感じるようになる。感覚が麻痺していくの。そして桁違いの顧客にロブションとか次郎とか福臨門とかに食事に誘われたりしていくうちに、自分もそこに属してるって錯覚して行く。それを錯覚と認めたくないから、現実的にその場所に留まろうとする。夫はそうやって目指す将来を見つけたのよ。」
「わかるよ。うちの客も一緒。爺さんと女子大生みたいな夫婦にも驚かなくなったし。お金って毒を持つ媚薬だよね。」

夫と離婚してしばらくは白金のマンションに住んでいた。でもひとりになると、自然と涙が溢れてくる。夫との思い出が詰まっている部屋に窒息しそうになって、過去を引きずって生きるのではなく、これからの人生だけを考えて暮らすことが大切だと自分に言い聞かせた。トレンドスポットと至近距離、ちょっと近所に行くにも、着飾った誰かと遭遇するかもしれないと気を遣う生活にも疲れ始めた。
そんな折りに大学時代の友人に誘われて、初めて行ったのが、バー「ざらめ」である。それは青山や広尾といったいかにもオシャレな街のオシャレなバーでは無く、中央線の阿佐ヶ谷という極めて庶民的な街の庶民的お値段のバーだった。
糊の効いた真っ白なシャツと黒いベストをきちんと身につけたマスターが作る絶品のカクテルと、イタリア帰りの才媛である奥様が作る、丁寧な料理の質の高さ、気取らない居心地の良さと、周りの商店街が新橋とシンクロして、すっかり気に入ってしまった。しかも職場のある新宿まで電車一本、その流れで駅からそう遠くない住宅街に、以前より広い部屋を見つけて、白金のマンションを売った金額で購入した。人生初めてと言っても良い、大きな衝動買いだった。私にも母の閃きの血が少しは流れているらしい。

そのバーで斎藤晃司と出会った。それはお酒の席で隣どうしになってなんとなく、というよくある話とはちょっと違う。彼は女性連れだったのだ。

その日はフランスから大御所デザイナーが訪れるということで、てんやわんやの騒ぎだった。九月のパリやニューヨークのファッションウイークが終わり、トーキョー・ファッションウイークの手前、秋冬コレクションが店に出揃ったタイミングだ。私は販売促進部勤務なので、デザイナーの来日以前から、顧客向けのショーの案内状やデザイナーとそのパートナーの宿泊先やレストランの手配、ショーに使うモデルのドレスサンプル、トランクショーで提供するアペリティフやシャンパン、フィンガーフードなどのチョイスと手配、ヘアメイクアップアーティストの予約、数週間前からやることが山積し、残業続きでそれらを全てクリアした当日は、今度はその全てが予定通りにスムーズに行くかずっと神経を尖らせていた。しかも外商の顧客がメインだから元旦那とずっと一緒の仕事だ。彼は昨年、リニューアルしたオークラで盛大な結婚式を上げ、再び既婚者になった。彼の指にはカルティエのプラチナのリングが光っていた。だから無事終了して店を出た時には十時を回っていたのに、部屋に帰る前に、ざらめでいっぱい引っ掛けてモヤモヤした気持ちをアルコールで飛ばしたかった。

「いらっしゃいませ。」
マスターが頭を軽く下げた。
「ああ、疲れた。」
私はそう言って、ジャケットを脱ぎ、カウンターに崩れ込んだ。「ねえ、明日、目の下にクマが出来ないようにビタミンブーストのカクテルお願い。」
「かしこまりました。」
マスターが微笑んだ。
ざらめの真骨頂、フルーツのカクテル。ここでは旬のフルーツを使ったとても美味しいカクテルを楽しむことができる。
「フレッシュなざくろを使ったジャックローズなど、いかがですか?」
「美味しそう、それお願いするわ。」

私はトイレに行き、手を洗って席に戻った。テーブル席に三十代っぽいネクタイ姿の男と女がふたり、ペペロンチーノと蕪の漬物という不思議な組み合わせでハイボールを飲みながら、安倍総理とトランプ大統領がなぜあそこまで嫌われるのかとかなんたらを激論している。日本は平和だなあ、と心の中で呟いた。
カウンターの反対側に男が座っている。男では無く紳士という言葉がぴったりくるスマートな出で立ちの男性だった。マスターがその紳士の前にサイドカーをそっと置いた。
ソルト&ペッパーの髪は自然なウェイブがかかっている。私よりひとまわり上くらいだろうか、淡いブルーと白ストライプのシャツ、ネクタイはしていない。若い頃はかなりハンサムだっただろう。私をチラッと一瞥し、ほんの少し、目の錯覚かもしれない程度に微笑んで、サイドカーをそっと口に運んだ。

「お忙しそうですね。」
マスターがザクロの実をほぐしながら話しかけた。
「秋はね。来週からトーキョー・ファッションウイークも始まるし、この時期だけはサボれない。」
「じゃあ、こんな場所で油売って無いで早めにお休みになった方がお肌には良いですよ。」
「相変わらず商売っ気無いわね。」
「そう思わせるのも戦略ですから。」
そう言ってマスターがマティーニグラスを置いた。マスターは三十五歳。端正な顔立ちだけれど、実年齢より随分大人びている。老けているのでは無く、佇まいが落ち着いているという意味で。
ブレンドしたばかりのフレッシュなザクロのジュースはグレナデンシロップと違い、芳醇な香りが鼻の奥まで届く。
「こういう新鮮な果物で頂くと、カクテルもなんか身体に良い気がする。それに適度のアルコールはストレスリリーフ、今夜はこれ一杯だけでぐっすり眠れるわ。」
私はグラスのステムを摘み、その果汁とカルバドスの融合体の、最初のひとくちを深く味わった。生き返る瞬間だ。

お待たせ。
低めの声に振り向くと、紳士の隣にショートカットの女性が座るところだった。
「いらっしゃいませ。」
マスターが頭を下げた。
綺麗な女性だな、と思った。多分四十代、クールビューティ、知性が感じられる。夫婦という雰囲気では無いので、恋人だろうか。彼女は黒いジャケットを着たまま、紳士の隣に腰かけた。お似合いのカップルだ。
マスターがおしぼりを渡すと、その女性が
「あちらの女性が飲んでいるのは?」と私に顔を向けた。私は少し微笑んで、
「ジャックローズ。フレッシュなザクロを使ったカルバドスのカクテル。」
マスターの代わりにそう答えた。
「じゃ、同じのを。」
女性が私に微笑み返した。

iPhoneを開けて、プライベートメールを確認しながらジャックローズをちびちびと味わっていると、突然、テーブル席の男女が私のところにやって来た。
「今、ちょっと議論が炎上してるんですが、トランプ大統領は日本にとって善か悪か、どう思われます?」
ここは時々、店中がパーティー状態になることがある。それもたまには楽しいが、正直、今夜はそういう気分にはなれない。元ダンナとの共同作業、しかもその新妻がVIPとしてお越しになられ、そのイチャイチャぶりをみせつけられたのだ。もちろん、そんなことをいちいち説明する訳にもいかないので、
「政治の話はちょっと。ごめんなさい。」
そう言って断った。
男女が顔を見合わせ、男性の方が、
「すみません。」
頭を下げてテーブルに戻った。
「じゃあ、あなたはどうお考えですか?」
私に質問した男性が、紳士に質問を投げかけた。
「ほら、大人のデート、邪魔しちゃダメでしょ。」
テーブルの女性がその男性を小突いた。
ひとりで飲んでる年増の女は邪魔してもいいの?心の中で皮肉を言った。
ショートカットの女性が、
「別れ話より、パーティーに参加した方が彼も嬉しいと思うわ。」
と言ったので、店は一瞬静寂のオフタイムになった。
紳士が苦笑いしている。
別れ話?私は心の中で呟いた。ふたりとも穏やかに落ち着いていて、そんな風には見えない。
今度はその女性が私の横に私と同じジャックローズを持ってやってきた。
「こちら、座ってもよろしいかしら。」
「どうぞ。」
他に言う言葉が見つからなかった。
「私、外科医なの。」
どうりで知的に見えたわけだ。
「優秀なんですね。」
「そうね。」
私は笑った。
「普通、そんなこと無いですよ、とか言いません?」
彼女も笑った。
「そういうのって面倒くさくありません?美人ですね、全然。いい人ね、実は違うの。人はどうしてそんな心にも無いことを言うんだろうって思う。謙遜って度を過ぎると嫌味でしょ。私は外科医なんだから、頭はいいに決まってるでしょ。」
「確かに。」
「あなただってただの中年OLには見えないわよ。さっきから只者じゃないオーラ、撒き散らしてるわよ。美人だし、ジバンシーのバッグも限定品だし。どっかのパパに買ってもらうタイプには見えないし。」
私は自分のバッグに目を落とした。ブルーで取っ手だけが黒のクロコ、社員割引で格安で買ったことは、もちろん言わない。
「待って。当ててみる。」
そう言って、女性が指を口にあてた。
「商社の総合職。」
私は笑った。
「違います。」
「じゃあ、ファッション雑誌の編集者。」
「外れです。」
「ええ?、なんだろう。。。」
「だから平凡なOLですよ。」
「だから、そういうのが嫌味なの。」
「すみません。」
「おいおい、会ったばかりの他人を虐めるのはそれくらいにしたらどうだ。」
紳士がカウンターの向こうから声を掛けた。
「あなたにフラれて誰かに当たり散らしたくなったの。」
澄ました顔で彼女が言った。
「よく言うよ、フラれたのは僕の方じゃないか。」
テーブル席の男女が静かになった。
セリフだけ聞いていると別れ話の口論だが、ふたりともまるで楽しんでいるようにしか聞こえない。
「仲良いですね。別れる必要無いくらい。」
私が言うと、
「説明するわ。」
彼女が言った。
「私、大阪の私立病院からヘッドハンティングされたの。お給料は1.5倍、しかも快適な住まいも提供される。私の専門は形成外科、それがその病院で新しく開設されることになって、私にオファーが来た。少し前、たまたま某政治家の息子さんの手術をしたんだけど、その政治家と院長が大学のご学友だったご縁で。」
「で、彼女が僕についてこいって言ったわけだ。」
紳士が彼女の隣に移動しながら言った。
「僕は一応会社をやっててね、東京を離れるわけにはいかない、そのくらいわかるだろう。逆に君が今の仕事をキープして僕と一緒に住めばいいと言ったのに却下したのは君の方だからね。」
「だって、あなた月の半分は海外じゃない。しかもほとんど自宅のオフィスで仕事してるし、会社に顔を出すのはせいぜい月に三、四回、それくらいホテルに泊まって本社に顔出せば何の支障も無いでしょう。」
「そういう問題じゃないんだ。何かあった時にプライベートで社長不在というわけには行かない。逆に君はどこに住んでも医者は医者、患者を治すのに代わりは無いだろう。」
「そちらこそわかってない。医者はどのくらい必要とされるかでモチベーションもやりがいも上がる仕事なの。プラス願っても無い好条件。あなたこそドイツや中国滞在中に問題が起きても、スカイプでクリアしてたじゃない。東京に固執する意味がわからない。」
「社長が恋人追いかけて会社から五百キロ離れた地に引っ越したら、それこそ社員のモチベーションが下がるだろう。」
堂々巡りだ。
「結局お二人とも恋人より仕事を選んだってことですね、なんかカッコいい。」
テーブルの女性が手を上げて言った
「仕事を選んだって言うより、歳を取ればそれなりの立場もあって、単純に仕事と恋と天秤にかけられなくなるかも。むしろ相手か自分かで自分を選んだってことじゃないかな。」
私が言うと、
「自分が無くなるくらい好きになるのが恋じゃないんですか?」
テーブルの女性が言った。外科医が笑いだした。
「うわぁ、あったあった、そんな恋、二十年くらい前にね、懐かしいなあ。」
私も頷いた。
「若い恋と違って人生折り返し過ぎると、あなたの色に染まる恋はできない。」
私が言うと、
「それそれ。」
外科医が続けた。
「あなたの色に染まるための白いウエディングドレス、老けると似合わない理由が今わかったわ。」
「そう言うことかぁ!」
テーブル席の女性が手を打った。
そう、私も遠い昔、恋に恋していた。彼の好きなタイプの女性を必死でコピーして、彼好みの女になることだけが全てだった。
「歳とるとね、若い頃みたいにひと目惚れで盲目にはなれない。計算もするし、物理的に考えて付き合う。そういう意味で恋とは呼べないのかもしれないけど。」
私が言うと、
「計算、正直だね。」
紳士が苦笑いして、外科医が紳士の肩を叩き、
「当然でしょ。私だって計算したわ。足し算引き算どころか因数分解やスクエアルート、エクセルでグラフまで作ってまで。」
と言った。
「女は怖いなあ。」
紳士が言うと、外科医が、
「そこのお嬢さんたちと違ってとっくに値崩れしてるのに、反比例でここまで待ったんだからって、どんどんピッキーになっていくものなのよ。供給がどんどん減って要求がどんどん上がる。で、妥協するならいっそ一人の方がいいって。」
私は大きく頷いた。
「つまり地位があって、妥協するには立ち位置が高過ぎるんですね。私は雇われ会社員ですけど、私程度でも今の仕事辞めろって言われたら、何があっても今以上の生活を生涯保証するって法的な誓約書でも書いて頂かないと無理だと思う。」
私が言うと、
「あなた、書いてくださる?」
外科医が紳士の顔を覗き込んだ。」
「書きますよ、いつでも。」
「嘘。」
「君はそれでも大阪に行くと思うけれどね。」
「あなたも絶対書かないでしょ、そんな一方的な誓約書。」
「だからアミカブルにさようならか。」
「そういうこと、永遠にさようなら。お互いの未来のために。過去は美しい思い出として心の引き出しにしまって、時々引っ張り出して楽しむもの。老後の楽しみとしてね。タイタニックの ローズみたいに。」
「おいおい俺を殺すなよ。」
ふたりは微笑み合った。なんだか共犯者みたいだ。完全犯罪を一緒に犯して、深い絆で繋がっているのにお互い会ったことの無い他人として、二度と会うこと無く生きていこうと決めたような、そんな別れ方だ。

私はバッグから名刺を出して彼女に差し出した。
「一応、普通の中年OLじゃないという証明。」
彼女が私と名刺を交互に眺めた。
「販売促進部 婦人服チームリーダー、ここ年収が高いことで有名なのよね。やっぱりね。私もよくあなたのお店でお買い物するわ。このバッグも。」
そう言って彼女もサンローランのバッグから名刺入れを出した。
「ご贔屓ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
加藤彩香。名前までカッコいい。
「僕も頂いていいかな。ここでお会いしたのも何か縁だし。」
紳士が言って、自分のも差し出した。

斎藤晃司
CEO
グリーンアース・テクノロジー

「ありがとうございます。」
私はそう言って、名刺を自分の名刺入れにしまった。
「ね、あなたたち、案外お似合いじゃない?」
彩香さんが突然言ったので、私は、
「まさか。」
と笑った。彼は苦笑いしている。

それだけのことだった。彼は別れ話のためにざらめに来た。

斎藤から電話がかかって来たのは、それから一ヶ月後、ファッションウイークも無事終了し、冬のセール、クリスマス商戦に向けて動き出す短いエアポケットのような時季だった。デスクでメールをチェックし終わり、ちょうどコーヒーを飲もうと立ち上がったところだった。
正確に言うと電話では無くテキストメッセージだ。それも写真付き。

「ホテルの部屋からの香港の夜景。誰かと共有したくなった。」

それだけのメッセージだ。
キザなやつ。
まずそう思った。
そしていったん携帯を置いてコーヒーを入れに行き、再び座って名刺入れから彼の名刺を取り出した。
グリーンアース・テクノロジー。
パソコンでグーグルのブラウザを開けて検索。ふと加藤彩香の言葉を思い出して笑った。

電卓で足し算引き算どころか因数分解やスクエアルート、エクセルでグラフまで作ってまで。

やっぱりそうだよね。身元調査って重要だから。
斎藤の会社は電気自動車のエンジン部品を作っている。中国とベトナムに工場があって、取引先はヨーロッパからアメリカまで幅広い。社員数二百五十人、年商百二十億。従業員一万人で売り上げ一兆円近い近い企業に属する文系の私には、この数字が妥当なのかどうかわからない。リケジョの彩香さんはエクセル駆使して分析したのだろうかなどと考えて、またひとりで笑った。
「何か楽しいことでもあったんですか?」
部下の西村くんが上からパソコンを覗き込んだ。頼んでおいたセール対象商品のリストを手に持っている。
「何ですか、この会社?」
「何でもないの。」
慌ててグーグルを閉じた。
「怪しいなあ。彼氏ができた、ひょっとして不倫?。」
「なわけないでしょ。」
私は西村の手から書類をひったくった。
「友人がこの会社からヘッドハンティングされてて、気になって調べてただけ。まだ決めて無いようだから。」
咄嗟に嘘をついた。
な〜んだ。西村はそう言いながら自分の席に戻った。
子供と大人の嘘は違う。子供は叱られないため、大人は秘密を隠すため。だから子供の嘘は一発その場しのぎで、大人の嘘は連鎖して引きずる。
嘘をつかずに生きられたらどんなに楽だろうと思うけれど、その引き換えに多分社会的に抹殺されるだろう。
西村が席に戻ってから、再び携帯を開けて、香港の夜景を眺めた。全面ガラス張りのホテルから百万ドルの夜景が広がる。
私は彼にメッセージを送った。

Beautiful.
I wish I were there. Have a great stay.

できれば私もそこにいたかった。日本語で書くと、重すぎるし、勘違いされても困るので英語にした。キザなやつにはこのくらいがちょうどいい。
すぐに返事が来た。

Promise, next time.

(約束だよ、次回は)

私は携帯を閉じて、また笑った。

斎藤から次のメッセージが来たのはそれから一週間後だった。

夕食付き合ってくれたら嬉しい。あなたの好きな店で、あなたの都合の良い夜に。

私は迷って、それから返信した。

あなたオススメのお店で。金曜日か土曜日なら。

斎藤が指定して来たのは荒木町にある割烹のお店だった。
私は約束ちょうどの時間に着いたが、彼は店
の中では無く外で待っていた。
古風な引き戸を開けると、白木のカウンターが清潔で、和の店なのに程よくモダンで感じがいい。

真っ白な帽子を乗せた、若い女性の板前が頭を下げた。
「いらっしゃいませ。」
常連らしくにこやかに談笑している。
「よく来るの?」
「まあ、たまにね。俺のテリトリーからはちょっと離れているけれど、女料理長の絶品料理はタクシー飛ばしても来たくなるからね。」
「ありがとうございます。」
女主人が答えた。
「私の職場からあっという間だったわ。」
「それはいい。気に入ってくれたらちょくちょく来よう。まずビールでいいかい?」
私が頷いて暖かいおしぼりで手を拭いている間に、主人が手際良く突き出しを小皿に盛り付け、カウンターに置いた。
色の綺麗な銀杏豆腐。
まずビールで乾杯して、箸をつけた。ぷるぷるの食感が口の中でとろけてまろやに広がる。
「美味しい。」
思わず口に出して言った。」
「ありがとうございます。
料理人らしからぬ華奢で綺麗な女性だ。
「うまいだろう。足を伸ばして来る理由がわかるだろう。」
「わかるわ。」
斎藤はビールを開けて、もう日本酒を選んでいる。
「その後、彩香さんとは会った?」
斎藤が私を見た。
「彼女の言ったこと忘れた?会わないと決めたら絶対会わない女だよ、彼女は。」
「寂しく無いですか?」
「君が会ってくれたからとりあえず立ち直れそうだ。」
「私は代用品。」
「代役がオリジナルを圧倒することだってあるだろ。」
「口が上手いのね。」
「まさか、むしろ不器用な方だよ。」
お料理が絶妙な間をおいて運ばれてくる。宝石のようにいくらを乗せた菊菜と炙り河豚の酢浸し、松茸の天ぷら、宮崎牛のカルパッチョ柚子風味。どれも女性シェフらしい彩りと繊細さに溢れている。
「君はボーイフレンドはいないの?」
「いたら金曜の夜に代打で男性のお相手なんかしませんよ。」
「おお、じゃあ俺にも大いにチャンスはあるわけだ。」
「さあ。私はどちらかというと歳下の可愛い男が好きなんだけど。」
「クーガーか。」
「クーガー?」
「アメリカの俗語だよ。歳下専門に食らいつく女。」
「よくそんな俗語知ってるのね。」
「俺、シカゴ大でMBA取ったから。」
「あ、自慢してる。」
「そりゃ歳下しか興味無い女のコに自分アピールするには、それくらいしなきゃダメだろう。」
「ははは。歳下の可愛い子だったら押し倒しちゃうんだけどね。」
「そっか、オジサンはダメか。」
「ダメね。」
そう言って、白子のチリ酢餡を摘んだ。
私も笑って茶化しているが、正直、本音でもあった。夫、いや元夫のつるりとした顔や平たい胸、長く伸びた足と、斎藤の皺の寄った皮膚や少しだけ膨らんだお腹とどうしても比較してしまう。
男の十五歳の差は大きい。それはつまり、女の十五歳でもある。夫はお金だけじゃ無く若い身体も手に入れたのだ。それは当然と言えば当然のことなのかもしれない。
「あ〜あ、オジサンは美女と食事できるだけでも有り難いと感謝して、大人しくひとり寂しく家に帰るしか無いんだなあ。」
私は吹き出した。それから自分の離婚の経緯を話した。
「別にクーガーじゃないの。私がって言うより、わりと歳下にアタックされるタイプ。本当は歳上に可愛がられて甘えたいんだけど、なんか甘えられないっていうか、照れちゃう。だから歳上に敬遠される。可愛げがないから。」
「チョコちゃんは姉御肌って訳だ。」
いきなりチョコと呼ばれてドキッとした。
子供の頃からのニックネームで、家族や昔からの友人は今でもそう呼ぶ。でも百貨店に入ってから、まわりはみんな二科さんか、麻里子みたいに知代子さんと呼ぶ。
「多分、そんな感じかな。」
「そうしたいんじゃなくて、そう期待されるから、期待に応えようとしちゃうんじゃ無いかな。」
「そうなのかなあ。自分でもよくわからないけど。」
「チョコちゃんはずっと優等生だったでしょ。期待されるとその期待に応えるために頑張っちゃう。チョコちゃんは九十点取ったけど、もうちょっと頑張れば百点だね、とか、チョコちゃんなら東大行けるよね、とか。」
「東大は無理だったけど。」
私は笑った。
斎藤も笑った。そして、急に真面目な顔になり、
「もっと楽に生きていいんじゃ無いかな。君の元旦那くんもチョコちゃんが甘えていれば、もうちょっと違った展開になったかもしれない。歳下って意識し過ぎてたのはチョコちゃんの方じゃないかな。歳上だろうと下だろうと男はみんな一緒だよ。」
「甘えてもらいたい?」
「甘えてもらいたいし甘えたい。甘えってセットなんだよ。片方だけだと物足りない。どうでもいいことに甘えて、肝心な時に甘えて欲しい。」
「そうなの?」
「男は例外無く見栄っ張りだからね。男が好きな女に甘えてもらえなかったら見栄張れなくなるじゃないか。」

その夜、店を出てタクシーを拾う道すがら、並んで歩いていると突然立ち止まって、
「チョコちゃん、意外と背が高いんだな。」
そう言って、私を見た。
「身長いくつ?」
「163cm。そんなに高く無いけど、ヒールで誤魔化してるから。」
「体重は?」
「45キロ」
「本当に細いんだなあ。」
「あなたの身長は?」
「182cm」
「背、高いね。」
そう言った途端にいきなり抱きしめられた。そして一旦身体を離すと、彼は唇を軽く合わせた。私が思わず身体を離すと、
「シャイなんだな。」
そう言ってもう一度、私を抱きしめて唇を合わせた。ディープキスじゃない、小鳥のようなキス。嫌悪感は無かったけれど違和感がある。まだ、心も身体も彼を受け入れる準備が出来ていなかった。それと同時に彩香さんの顔と夫の顔が交互に浮かんだ。
「彩香さんに言われたから?」
「ん?」
「彼女にお似合いって言われたから。」
「ああ。」
斎藤は思い出したように頷いた。
「別にそんなんじゃ無いけど、まあ、あいつは俺の好みよく知ってるから。そういう意味では正解かな。」
斎藤はそう言って、私の額にもう一度キスをした。

部長に呼ばれたのは、斎藤とのデートの週末明けだった。
「シンガポールのスコット店の店長が帰国することになってね。仁科君に白羽の矢が立った。」
「私がですか?」
「そうだ。栄転だろ。」
一瞬言葉を失った。シンガポール、栄転、それらの言葉が宙に浮いたまま、行き場を無くして漂う。
「ちょっと待ってください。それが栄転とは思えません。今の部署でそれなりに実績も上げていますし、海外勤務は通常もっと若い人間が行くと相場が決まっていますよね。しかも女性ひとりでって前例無いんじゃ無いですか?」
「それは君の受け取り方次第だ。だいたい君は管理職だ。今まで男たちと同等に戦ってきて、ここに来て女をひけらかすのは本末転倒じゃないか。」
「それは。。」
「どちらにしても上が決めたことだ。」
空中に漂っていた言葉の背景に、先日のイベントで微笑み合っていた夫とその妻の顔が見えた。妻は、夫に微笑みながら、横目で私を凄い形相で睨んでいる。
「それは、白木星絵さんの要望ですか。」
部長が一瞬目を逸らした。
「君もサラリーマンのひとりならわかるだとう。何度も言うが、上層部が決めたことだ。従わなければ辞めるしかないと言うことだ。」
「わかりました。ひとつだけお聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
「部長はこの人事をどうお考えですか?あくまで個人的見解として、ですが。」
数秒、部長が私の顔を見た。
「ずっと一緒に働いて来た仲だ。オフレコという条件で君を信用して言おう。俺に言わせれば君の元ご主人は金に目が眩んで奥さんの尻に敷かれっぱなしの情けない野郎だ。話としてはよくある話でも、やり方が汚すぎた。俺が君だったらあの綺麗な鼻筋に一発パンチを食らわせてやりたい。だが俺でも多分できない。君と同じくサラリーマンだからな。何と言おうと、年間一億以上使う顧客の意向は最優先されるんだよ。」

正式な内示はその三日後に降りた。来月いったん飛び、準備をして 年末からお正月は帰国、一週間休みをくれた。理由が理由だけにせめてもの温情だろう。
噂は一気に広がった。多くは同情で、むしろザマアミロと思われた方が気が楽なくらいだ。皆、私に対して腫れ物に触るように接して、上司がコーヒーを入れてくれたり、部下が突然マカロンやケーキを買って来たり、それが余計にキツかった。

「やられちゃったね。」
麻里子が言った。
今日はざらめに来てくれた。麻里子は代々木上原に住んでいる。うちに泊まって私のラ・メールの美容液をざくざく使い、翌朝パークハイアットのニューヨークグリルのブランチに付き合うなら、愚痴を朝まで聞いてくれるそうだ。

「あまりにスタンダードな嫌がらせで呆れるけど。」
「こういうのスタンダードなの?」
「ほら、政治家なんか政略結婚のために娘の恋人を東ヨーロッパに飛ばしちゃうとか。」
「そんなことあるの?」
「よく聞く話。うちの顧客にもいるから。」
麻里子の店はアンティークと称して、オークション級の一脚うん千万の椅子なども売っているのだ。顧客には国を動かすような政治家も名を連ねる。そのうん千万の椅子やら絵画が個室での密談で贈与されるかは、もちろん教えてくれないが。
マスターの奥様が揚げたてのとんかつを持ってきた。とんかつソースの代わりに大根おろしを使った、さっぱり特性ソースが添えてある。
「ファイト!」
奥様が小さな声で言った。
私も小さな声でありがとう、と言った。
サクサクの衣と柔らかな豚フィレが嬉しい。
「そうだよ、知代子さん、これからの人生、勝ちに行かなくちゃ。」
麻里子がカツを摘みながら、私の肩を叩いた。
「私、優介の携帯に電話したんだよね。」
優介、元夫の名前だ。
「ウソ!」
「感情抑えられなくて。」
「で、なんて?」
「俺の立場も考えてくれって。」
「そちらもスタンダード。」
「でね、あんたなんかこの会社で顧客にへいこらしなくたっって、とっとと退社してお義父様の会社に入ればいいじゃないって言ってやった。」
「妥当なリクエストね。」
「そしたら、俺にもプライドがあるって。」
「は〜、ちんけなプライドだこと。」
「第一、俺が辞めても星絵がうちの店のVIPである限り、君との遭遇は避けたいという感情は変わらないって。」
「まあ、理屈ではそうなるよね。」
「で、それでも私を地方に左遷じゃなく栄転にしたのは、奥さんに内緒でどれほど自分が動いたか、君は知らないだろって言われた。彼の誠意だって。真偽はたしかめようも無いけど。」
「まあ、元旦那にだって罪悪感くらいはあるでしょ。それを恩着せがましく言うところが所詮アスホールがちっちゃなやつだけどね。」
麻里子は桃を使ったベリーニを飲みながら続けた。
「要は自信が無いんだよ。知代子さん綺麗で優秀だから。自分に自信があったら、顔合わせても、顧客ヅラで顎で使えばスッキリするんだから。それができないのは、不安だから。親の金以外には知代子さんよりだいぶ若いってだけが取り柄の可哀想な女よ。」
「実際に可哀想なのは私だけど。」
「可哀想な知代子さん、マリちゃんが慰めてあげる〜。」
そう言って麻里子が抱きついて来た。
「やめてよ、気持ち悪い。」
「うそ〜、嬉しいくせに。」
麻里子がとんかつの最後の一切れを私の口に持って来た。
「知代子お姉様、あ〜ん。」
麻里子がそう言って私を強く抱きしめた。

パークハイアット高層階で、地上の魑魅魍魎を忘れて楽しむブランチは、確かにストレス発散になる。でも一人になると無性に寂しくなってきた。
帰る間際に麻里子がご主人に電話をしていた。「今から帰る、そう?どこに行ったの?へえ、よかった。」
それだけの短い会話。妻が落ち込んでる友人宅に外泊している間に、ご主人が息子を連れて、同じようにブランチを食べた、それだけのこと。当たり前のことだが、私といても家族と繋がっている麻里子が羨ましい。
一瞬、娘を外国に放り出したことを後悔した。
結婚していた時は週末に予定が無くて当たり前で、接待ゴルフなどで留守がちだった夫がいない部屋で、本を読んだり映画を見たりしてゆったり過ごす時間が好きだった。ひとりになるとこんな非生産的で不毛な過ごし方をして、貴重な残り時間を無駄にしていいんだろうか?と不安になる。じゃあその時間を趣味やお稽古やヨガを始めるか、もっと積極的に婚活?と自問すると、まだそこまで自分を急かす気にもなれないでいた。つまるところ、未だに前にも後ろにも進めない自分にため息つくだけなのだ。

家中を掃除して、冷蔵庫の補充品のチェックをして、保存料理をいくつか作り、ひとりで夕食を食べてソファーに身を沈めた。そして娘に電話を入れた。

「what’s up mom.」
いきなり英語が返ってきた。後ろからラップ音楽とルームメイトの調子外れの歌が聴こえる。
「日本語忘れたの?」
「なわけないでしょ。」
「じゃあ、ちゃんと日本語で電話取りなさい。」
「何?説教するために電話してきたの?」
「冬休み帰ってくるでしょ?」
「一応そのつもりだけど。」
「あのね、お母さんシンガポールに転勤になったから。」
「Singapore???」
娘が綺麗な英語の発音で、素っ頓狂な声を出した。
「うん。突然だけど来月から。」
「来月ってもう二週間くらいしかないじゃない。」
「そうなの。年末には一時帰国するけど、クリスマスは向こう、だから恵梨香、チケット送るから、そっちからシンガポールに飛んで、二-三日過ごして一緒に帰らない?」
「いいけど、いったいどうなってんの?」
「さあ、パパに聞いたら。」
恵梨香はなぜか私をお母さんと呼び、夫をパパと呼ぶ。
「そういうことか。」
恵梨香は利発な子だ。察したのだろう。
「パパが気にしなくても平安姫が嫌なんだろうね、元奥にうろちょろされたら。」
娘は夫の新妻を平安姫と呼ぶ。平安の女は下ぶくれで、夫の妻は顎が小さいけれど。
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫に決まってるでしょ?私を誰だと思ってるの?ミセス・ポジティブ、あ、ミスだった。」
言った途端、笑おうとして涙が出てきたので慌てて電話を切った。自分でも驚くほど涙が後から後から溢れ出した。
何年ぶりだろう、こんなに泣いたのは。
離婚して引っ越した夜以来だ。あの時も泣いた。でもあの時は夫への未練と怒りで泣いた。今夜は、悔しさと惨めさで泣いている。理不尽な敗北感、その涙だ。

「シンガポール?」
斎藤も素っ頓狂な声を出した。娘と違って日本語の発音で。
「また急な話だね。」
私は事の次第をかいつまんで話した。
今夜は中華だ。今回は上野にやってきた。
「だったらイタリアンとかの方が良かったかな。」
斎藤が言った。
「いいわ、今から予行演習。」
斎藤が笑って、
「そのわりには元気で良かった。」
それにしても斎藤は色々な場所の美味しい店を良く知っている。上野なんて数十年前にバーンズコレクションが日本に来た時に美術館に見に行って以来だ。
烏龍茶を頼む斎藤に、
「今日は飲まないの?」
と聞くと、
「今日はやけ酒飲みたいだろうお嬢様の介抱役に徹しようと思ってね。」
そう言って私に桂花陳酒を注いだ。
「ウソ、シンガポール行きは今話したばかりりじゃない。」
「以心伝心ってやつ?まずは甘〜い食前酒から」
「下心見え見えってやつ?」
「人聞き悪いなあ。これでも好きになった人にはけっこう純情なんだけどね。」
「ほんと、嘘ばっかり。」

正統派の焼売や海鮮水餃子がびっくりするくらい美味しい。港区の有名中華料理店出身のシェフを呼び寄せて作った広東料理店らしい。
スペアリブの豆豉風味が運ばれて来た。
「俺、これが好きでね、こいつのためにここまで来るんだ。
「本当に美味しいお店をよく知ってるのね。」
「海外出張が多いし接待ばかりだから、せめて日本にいるときは好きなものを食いたいからね。本当は誰かさんに家で作ってもらいたいけど。」
私は彼のために料理を作る自分を想像した。意外と悪くない。
「こんなに美味しいものは作れないけど。」
「家庭料理は普通が一番なんだよ。家でオマール海老のアメリケーヌソースとか出されたら拷問だぜ。」
私は思わず吹き出した。
「でもさ、考えてみれば離婚した後も同じ職場で働いていたこと自体に無理があったんじゃないか?」
「う〜ん、気まずくないって言ったら嘘になる。でも私は割り切ってた。私はだいたいオフィスにいて、こないだみたいなイベントが無ければ会うこともあまり無いし。」
「存在事態が脅威なんだな。奪ったつもりでも、こんないい女にうろちょろされたら、やけぼっくいに火がついたらどうしようって。君を見たら金の力で奪ったって思うだろうし。」
麻里子と同じことを言う。
「それはないわよ、私より十五歳も若いんだから。」
「歳は関係無いさ。」
「あるある。私なんか、身体の線崩れる一方だし。」
「すごくスタイルいいじゃないか。」
「服着てるといいんだけどね、私の裸知らないから。娘にも言われる、お母さん人前で服脱がない方がいいって。」
斎藤が笑った。
「誓うよ。そういう機会が訪れても絶対失望しないって。」
私はそんなことを言う斎藤に聞きたくなった。
「男ってそんな瞬間を心待ちにするのよね。」
「女性だってそれはあるだろう?」
「他の女性は知らないけど、私は初回より、馴染んでからの方が好き。」
「なるほど。俺は両方だな。」
「でしょうね。男は征服欲を持つ生き物だから。」
「そういうんじゃなくてさ、なんていうのかな、ほら、プレゼントもらって、綺麗にラッピングされた箱をリボンほどいて、紙を破いて箱を開ける瞬間、何だろう、何だろうってワクワクするだろ?あの感じ。」
「なるほど。なんかわかる気がする。」
「だろ?で、それが期待以上だと、すっげえ嬉しくてさ、で、毎日眺めて、どんどん愛着が湧いてくる、そんな感じかな。」
斎藤の言葉を聞いて思った。
夫には、どうせなら五年前に捨てて欲しかった。五年前はまだ生理もあって、体型は今より上向きだった。身体のラインが崩れ始めたのは閉経して一年後からだった。そう、この一年で激変したのだ。顔だって油断して下を向いていると顎が二重になる。
「俺にとっては好都合かもしれないな。」
烏龍茶を飲みながら斎藤が言った。
「え?」
「俺、ほぼ毎月行くから、香港台湾、ベトナムからシンガポールに入る。君に会えると思うと出張の楽しみが増える。」
「そうなんだ。」
「海外での逢瀬もロマンティックでいいと思わないか?」
「あなたはいつも どこに泊まるの?」
「グッドウッドパーク・ホテル。好きなんだよね、あのコロニアルな雰囲気。」
「本当にロマンティックね。」
シンガポールは学生時代に一度行ったことがある。ゴミひとつない綺麗な街だったのは覚えている。でも食べることと買うことに夢中で街の記憶は曖昧だ。
「知ってた?男は女以上にロマンを求める動物だって。」
「知らなかった。」
「グッドウッドパークのバーで待ち合わせてシンガポールスリングを飲む。」
「シンガポールスリングならラッフルズホテルでしょ。」
「へえ、詳しいね。」
「学生時代、行ったから。」
「チョコちゃんは意外とミーハー。」
「ええ、ミーハーよ。ミーハーついでに、待ち合わせはロマンティックなバーじゃなくてマーライオンの前、で、お肌に良いツバメの巣とフカヒレの姿煮をご馳走してもらう。」
斎藤が声を出して笑った。
「知ってる?マーライオンって世界三大がっかりモニュメントの代表格だって。」
「へえ、そうなの?」
「そうさ。ベルギーの小便小僧とデンマークの人魚姫と並んでね。あんなちゃちな銅像見るんだったらこれからドライブして鎌倉の大仏見た方がよほどご利益がある。」
今度は私が笑った。

「送って行くよ。」
店を出て、並んで歩いていると斎藤が言った。
「大丈夫、タクシー拾うから。」
「車なんだ。」
「え?」
「だから、送る。」
「どうりで一滴も飲まなかったわけだ。」
斎藤の車は近くのコイン駐車場に駐めてあった。スポーツタイプを想像していたが、ポルシェのカイエン、SUVだった。
「どうぞ、お嬢様。」
斎藤はそう言って助手席のドアを開けた。
男性の車にドアを開けてもらって乗り込むのは何年ぶりだろうか。
シートに沈む込み、ステアリングの中央にはめ込まれたロゴの七宝焼きをなんとなく眺めていた。
「阿佐ヶ谷、それともうちに寄る?」
「何それ?」
「ほら。」斎藤が自分の腕の時計を指差した。シンプルなオメガの革ベルト。
「まだ九時半、明日は休みだろう?」
「休みだからあなたに抱かれていいってこと?」
ははは。斎藤が笑った。
「それは君次第。僕はチョコちゃんの酔い覚ましに上手いコーヒーを飲ませてあげたいだけだよ。何ならもっと楽しいこともオマケでつけるけど。」

斉藤に抱かれたいか?わからない。抱かれたくないか?別に嫌だとは思わない。ラッピングペーパーを開けるように、わくわくするかと言われたら、正直それは無い。

斎藤のマンションは赤坂にあった。
彼の部屋は高層マンションの二十階にある。
玄関を開けると大振りのセクショナル・ソファがL字に並び、窓の外に東京の夜景が一望できる。
「素敵な景色。」
「だろ?」
斎藤はソファの先にあるダイニングセットの椅子にジャケットを掛けて、その左側のキッチンに行って手を洗い、上のキャビネットからコーヒー豆の缶を取り、手慣れた手つきでグラインダーに豆をセットした。豆を轢く音が聞こえる。私はダイニングチェアに腰掛けて、そんな斎藤を見ていた。
斎藤がバーカウンターからエスプレッソのカップをふたつ持って来た。
「毎回豆を轢くの?」
「コーヒーにはちょっとこだわりがあってね。」
「こっちへ行こう。」
斎藤が私を促し、ソファに座った。

「最初会った時、なんで阿佐ヶ谷だったの?あなた、こんなところに住んでいて。彩香さん、私のご近所?」
斎藤の会社は浜松町にある。ウェブでチェックしたから間違い無い。
「彼女は学芸大に住んでいる。たまたま荻窪に住んでる友達にあのバーを勧められたらしい。」
「だからわざわざ?」
「別れ話するのに行きつけじゃなくて二度と行かない場所にしたかったって言ってたからな。それと、彼女はバーにはひとりでも女どうしでも行かないって主義だから。」
「ふ〜ん、どうして?」
「物欲しそうに見られたくないから。」
「へえ、私、物欲しそうに見えた?」
「見えた。」
斎藤がニヤっと笑った。目尻にいくつもの皺が走った。でももう慣れてしまった。不快な皺では無い。彫りの深い横顔によく似合っている。
「嘘だよね。」
「嘘。」
「全くもう。」
私は口を尖らせた。いい歳をして、と思う。でも斎藤は、
「チョコちゃん、可愛いな。」
そう言って私の頭を撫でた。
「可愛いって歳じゃないけど。」
「君は充分すぎるくらい若いよ。」
斎藤は私を抱き寄せ、唇を合わせて来た。エスプレッソの香りがする斎藤の舌が私の舌に絡み合う。二人は初めて長いキスでお互いを味わった。
「私たち、不思議な出会い方だったよね。」
「だな。でも楽しかったな。彼女とは険悪な別れになると思ってたのが、ちょっとしたディベートパーティーになった。」
「彩香さんって知的なだけじゃなくて面白い。カッコいい女だよね。」
「俺が付き合った女だからな。」
「そういうわりにあっさり別れた。」
「素敵な女性だよ。でも寛げなかった。一緒にいて楽しいけど、別れた後に自分が疲れていることに気づくような関係だった。」
「無理してた?」
「無理と言うより付き合い方が淡白だったからかな、寛げるほど親密にはならなかった。なんだか同志みたいで。男と女でい続けるには、彼女が自立し過ぎているし、強すぎる。あの大阪行きだって、突然決めて、事後報告だったしな。」
「淡白な付き合いか。」
私が復唱すると、
「セックスが淡白ってことじゃないよ、念のため。精神的繋がりって意味で。」
そう言って私の股間に手を置いた。
「すけべ。」
「ありがとう。」
斎藤が再び唇を合わせて来た。私が彼の身体に手を回すと、彼の右手が私の服の上から胸を優しく撫で始めた。
「ベッドルームへ行こう。」
斎藤がかすれた声で呟いた。




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