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わたしとまるちゃん

 「お前はちびまる子ちゃんに出会わなければ、もっと真面目な人生だったろうね」

 昔、兄から言われた言葉である。 
 
ちびまる子ちゃんは作者の幼少期を元にしたエッセイ漫画。初めてちびまる子ちゃんを読んだ小学生の私は「すべて本当の話なんだ。宿題しなくてもいいんだ!こんなふざけたことをしてもいいんだ!!」とアホな解釈をして影響を受けまくった。まるちゃんは何も悪くなく、私がアホだった。それに尽きる。
 その結果、それまではキッチリした子だったのに真面目に生きるのはバカらしいと斜に構えた生意気なガキになり、家族に心配をかけまくった。 

 我が家には戦時中の「国家総動員法」ならぬ「家族総動員法」がある。これは私の一大イベントの際に発令される家庭内取り決めである。とりわけ大学受験時には、だらしがない私のせいで母はスケジュール管理と叱咤激励、兄は叱咤激励と受かりそうな学校のリサーチ、父はそれを元に受験校を決めるなど、家族全員を巻き込んでの大騒動だった。浪人時の2度目のセンター翌日、予備校で自己採点を終え、母とランチに行く予定のゆるゆるな私を見ているかのように、県外に住む兄から着信。

「他の予備校の判定をしてもらうから今から全部点数を言え」

あわてて駅のホームで問題用紙を広げて点数を伝えた。本人よりも周りがピリついていた。

 数日後あらゆる予備校の判定結果を元に家族会議が開かれた(確か兄は電話で参加していた)。「神風が吹いた点数で意外にも多少の選択肢はある」「2次で数学は絶対無理や」「このあたりなら遠くもないからいいんじゃない?」「お父さんが遊びに行きたい場所に行ってほしい」など好き勝手に話をされて、本人は意見を言うことなく受験校が決まった。その後、なんとか大学生になることができた。ちゃらんぽらんな中身は変わらなかったが。

 大人になってもちびまる子ちゃんの新刊が出ると購入していた。何回読み返してもコジコジは笑えるし、エッセイマンガの「ひとりずもう」のたまちゃんとの別れは泣いてしまう。だからいつか静岡に行ってまるちゃんの世界を覗いてみたいと思っていた。そんなころ、さくらももこさんが亡くなった。

「もう、まるちゃんはいないのか」と悲しく、からだの一部にぽっかりと大きな穴が空いた気がした。幼少期一緒にちびまる子ちゃんのマンガを読んでいた兄も、訃報をきいて珍しく連絡をしてきては悲しんでいた。しばらくは静岡に行きたい欲も消えてしまった。
 
 だが今年静岡に行くことにした。ずっと気になっていたさくらももこ展が地元静岡で開催されていたからだ。一泊二日の弾丸ひとり旅行。みちみちのスケジュールで展覧会やちびまる子ちゃんランドを中心に静岡を堪能した。


リアルなさくらももこさんを知ることができた


 なかでも、ちびまる子ちゃんランドまでの道中は、まさに聖地巡礼。「これが巴川か!」「百恵ちゃんのコンサートがあった市民会館?」「リンダと城みちるがきた港まつりの看板!?」「さくらももこさんもこの道は通ったんだろうなぁ」など少し歩くだけでもまるちゃんの世界が広がっていて頭が忙しかった。周りを見渡すだけでマンガの詳細を思い出す。小さい頃から何度も読んだマンガの舞台に自分がいることが嬉しかった。

街じゅうにまるちゃんがいっぱい


 ちびまる子ちゃんに出会ったからこそ、今の私がいる。ちゃらんぽらんな私も、文章を書きたいと思う私も、ひとつの仕事を頑張る私も。そんなことを改めて知ることができた旅行だった。

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