「弟子」ってどういうこと?

この辺りになると
親鸞さんが
一途に教え伝えていたものは
宇宙のしくみ(流れ)に任せなさい
ということだとわかってくる。
ひたすらそれが繰り返される。


ただ、その中にも
親鸞さんがあまり好きではない
あの時代の風潮があったみたい。

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『歎異抄』 第六条

宇宙のしくみを思い出し
信じている仲間たちの中で
これは私の弟子だ
あれはあの人の弟子だという
言い争いがあることは
とんでもないことです

わたくし親鸞は
弟子を一人も持っていません

その理由は
私の意思だけで誰かに
宇宙のしくみを信じることを
強制したのであれば
弟子といえるのでしょうが

宇宙のただ起きる流れに任せて
そのしくみを思い出し
心から信じている人たちを
自分の弟子だというのは
非常に軽はずみで
いいかげんなことだと
考えているからです

ともに生きる縁があれば一緒に生き
離れる縁であれば
別々に生きて行くものであるのに

師匠に背いて他の人と活動をすれば
この世を気楽に生きていくこと(極楽往生)はできない
などということは説くべきではありません

宇宙の流れの中で
自然に人に起こった信じる心を
私がそう導いたのだから
私に付き従うべきだとでも
言いたいのでしょうか

どう考えても
あってはならないことです

自然の流れに任せて生きていれば
人は自らの気づきのチカラで
感謝の気持ちを持つようになり

またそれを助けてくれた
師匠への感謝も
できるようになるのです


*~*~*~*~*~*~*~*~


親鸞さんは弟子を持ったことはない。

先生先生と慕ってきて
ともに念仏(しくみについての話)をする
仲間はいたかもしれないけど

自ら認定したような
弟子という弟子はいない。
(知らなんだ!)

ただ周囲にはおそらく
師弟関係だということにして
それを利用した団体が多くできたりして
いろんなイザコザがあったのかも。

自分こそ弟子だと思い込んだ人たちが
勝手にいろんな派閥を組織したとか?


笑うとこじゃないだろうけど
現代みたいに会員のノルマ制度なんかが
あったのかも?( ̄▽ ̄)
(現代の制度全然知らんけど!)


脅して関係を維持したり
自分の傍に留まらせること自体
もうなんか破綻してるけど
本人たちはそうしないと価値がない
生きていけないと必死なんだよね。


親鸞さんは言い争いや強制が
お気に召さない平和主義だった?
(誰だってそうか…)

弟子ってつまり
そんなゴタゴタなど起こりようがない
最終的に感謝し合う関係なのかも。
ご縁があれば共に活動するし
ご縁が薄くなれば別の道へ行く。


なんまんだぶ なんまんだぶ


心静かに
宇宙の流れにおまかせしよう


だいじょぶ だいじょぶ(^-^)

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