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ラ・サールの日々の始まり

母の愛の形

少し本編を逸れて脱線を。ラ・サールへの進学が決まった頃、母は内職をやめ、病院で働き始めた。

「息子が中学生になったら」

なんて初めから決めてたのかもしれない。でも、今思えばラ・サールだったからなんじゃないかって思うんだ。公立に比べて、やっぱり授業料は高くて。勉強に無縁の家庭から、ひょんなきっかけで塾に通うようになり、勉強が好きになった息子の成長に経済的な事情がブレーキをかけてはいけないと思ったのだろうか。母はこれから、毎朝5:00に起きて、お弁当を作り、寝起きの悪い息子と毎朝大激戦を繰り広げ、息子を6年間見送り続けた。多くを語らない母でした。素敵な母親だと思います。

後に、母が初めて「息子を育てること」を語るのは、浪人が決まり、東京へ出ることが決まった日でした。変わった形をした、とても深い愛情でした。その話はまた次の機会に。


自分の位置

憧れが日常に変わり始めた1年生の5月、初めてのテストがあった。なめきっていた僕にはきちんと天罰が下る。平均得点率は81%に対し、僕は78%。

「このおれが平均以下...だと...?」

クラスの隅っこのメガネはもちろん、隣のアホ面にすら負けていた。敵はいないとすら勘違いをしていた僕はこの事実が受け入れがたく、しかもなんだか野球部の同期はみんな成績良くて。野球もできない僕は完全に底辺にいました。

野球部の練習にボール回しというものがあります。ホームと1,2,3塁にそれぞれ選手が立ち、ボールを投げて回していくというもの。キャッチボールの正方形版みたいなものです。40回回せれば合格の練習で部員は40人ほど。1人1回出来れば良いこの練習で僕は5回連続でミスをした。

表情は強ばる。恐ろしい先輩と苛立ちを募らせる同期のなかで1人でミスを繰り返し、プレッシャーはみるみる体の自由を奪っていく。

今日だけで何度も味わった、グラブからボールがこぼれる感覚。キャプテンの中村先輩から告げられた言葉は理解できても残酷だった。

「おまえ、もういい。マウンドで声でも出してろ」

歯向かう元気も、やらせてくださいと頼み込む勇気もなく、恥ずかしい気持ちも自分への苛立ちも全部飲み込んで、みんなより一段高いマウンドから人一倍声を出しました。僕を外してから、簡単に積み上がっていく数字に狂おしいほどの吐き気がした。


~13歳~

母を恨んだ。なんで運動部なんて入れって言ったんだ。野球なんてしてるから勉強にも時間が割けなくて成績も上がらないんだ。

22年という月日が、ようやく母の言葉を理解させてくれる。

人間とは、やらない理由とできない言い訳を見つける天才なのだ。
神は、僕にも例外なく、この才能を授けていた。

ただもう1つだけ、僕には与えられた才能があった。


今でも胸を張って言える。

僕はこのとき、勉強からも野球からも逃げなかった。

朝早く学校に来て先生に質問することも多くなった。野球部でも分からないことは分からないと伝え、煙たがる先輩や同期に屈さずたくさんの会話に努めた。

初めに芽を出したのは勉強だった。


~小さな話題の人へ~

どうやらもう10章まで来たやつがいるらしい。B組の上山ってやつだ。
小さな噂が立ち始める。英語の教科書を暗記するという課題。進度は自由に決めて良い。1章覚えたら中間考査に+2点。簡単な話だった。周りが3章の暗記を始めた頃、僕は8章の暗記を終えた。英語の発音をネイティブの先生に褒められ、嬉しかった。それだけのきっかけなのだ。暗記をすることで予習も進み、みんながまだ知らない文法を形で覚え、感覚を掴んでゆく。
英語の順位はめきめき上がり、常に10番台をキープするように。自信を取り戻した僕は他の教科にも手を広げ、1年を終える頃、上位1/3には入るようになっていた。


~野球部でのポジション~

当たり前のことを言います。
勉強ができるようになったところで野球は上手くなりません。でも、少し振り切れてました。野球部でも「上山は勉強はできる」と認知され、ひとまずのアイデンティティを獲得していました。ただ、最低限の技術は手に入れたものの、一向に野球は上手くならず。そんな中でも前のような居心地の悪さは消えかけていました。

卒業してから監督だった西田先生とお酒を飲みました。
「今の野球部には上山みたいな選手はいない。下手くそでもそれを認めて前に進もうとするやつが。」
居心地の悪さが消えた原因はここにあるんじゃないかと思うんです。色々下手だけど、それを言い訳にせず、与えられた練習はきちんとこなしていきました。"捕れるまで帰れない"みたいな練習メニューも人一倍時間かかったけどやり抜いていた。回りとたくさんコミュニケーション取りながら、できないことに立ち向かっていく。真摯であることを回りが認めてくれていたんじゃないかと思います。こんなのを受け入れる器を持って接してくれた先輩方や同期にも本当に感謝しています。

吐き気がしたあのマウンドから、部室で先輩を交えて心から笑えるまで。
暗く冷たい水のなかで、もがいて、苦しんで、やっと光を見つけて顔を出し、息を吸い込んだ頃には、いつの間にか1年が経っていました。



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