Independence Day
うつ病になり、会社を辞めました。
今後、こんなにインパクトのあるノンフィクションな一行目を書くことは無いと思います。
今日は、僕が会社を辞めるまでの物語です。
人から心配の声をもらいたがる、メンヘラみたいな趣味はないので、結論から言うと大丈夫です。
2月9日からうつ病で会社を休職し、1週間と少し、寝込みました。
1月の下旬ごろから、仕事がある平日の朝、毎日毎日、嗚咽と腹痛が止まらなくなってしまったんです。身体は過敏性腸症候群という病気にかかり、心は同時にうつ病に侵されていきました。
過敏性腸症候群というのは、めちゃくちゃ簡単に説明すると、精神面からくる腸の不調です。
仕事を断れない人の身体が、口で苦しいと言えない代わりに、お腹の痛みとして危険信号を伝えてしまう病気。ストレスを感じるとお腹が痛くなってしまうものの最終形みたいなものです。
”仕事減らしてなんて言うの、カッコ悪い”
こんな小さなプライドを守るために、自分の体で受け止めきれない量の仕事、到底達成できない締め切りに耐えきれず、心と身体が先に壊れてしまったんです。
今もストレスがかかるとすぐに腹痛を起こしてしまったり、突然かかってくる誰かの着信が怖かったりと、小さな後遺症が残っています。
会社に、最後に挨拶に行った日、みんなの前では気丈に振る舞えた気がするけど、本当は腹痛で壊れそうでした。
大好きだったはずの働くことが、怖くなったんです。
そんな僕は2月9日から1ヶ月、傷病手当金という国からの補助を受けて生活していました。
ケガや病気で働けなくなった人に向けた国の補助金です。これまでの収入の約6割が補填されます。
新卒1年目、26万円の初任給を頂いていた僕への補助金は約16万円。家賃や光熱費に加えて、奨学金の返済をしたら残りは5万円ほど。
非常にありがたい制度だが、贅沢なんてできないし、ここに加えて医療費がのしかかる。
とても生活なんてできなかった。
でも、元の会社に戻って働くことはどうしても上手くイメージできなくて、休職期間、他のステージで働くことも考えるようになりました。
〜転職活動〜
まず、すぐに発想したのは転職でした。
他の会社に入って、もう少し緩やかな条件で働くことはできないかを模索しようとしたんです。
ただ、休職期間も限られているし、そもそも心身が不健康な状態で、まともに転職活動なんて、到底できなくて。
元の会社に戻ったら転職活動なんてする時間ないし、もしまた心が折れたらと思うと、働きながら転職活動なんてする時間がない”逃げ場なき会社”にはどうしても戻れませんでした。
戻りたいとも思いました。会社の人、みんな好きだし。休職期間中、同期や先輩、内定者の後輩たちの愛に触れて、たまらなくなった。
突然、用件もないのに電話をかけてくる同期。
「大変。来週金曜日、有給なのに暇」と強引なラインをしてくる先輩。
深夜1時に電話かけてきやがって、急に泊まりに来る後輩。先輩の家をなんだと思ってやがる。
みんなみんな大好きだった。
でも戻れなかった。心の折れた僕には、逃げ道がどうしても必要だった。
だから僕は2ヶ月の休職期間を終える前に、色々な人に会って、会社を辞める決断をしました。
その人たちの話はまた後ですることにしましょう。大切な人たちです。
〜3月10日〜
何かと僕のターニングポイントになってきた日。
この日は東大に落ちた日であり、慶應に行くのが決まった日でもありました。
毎年ヒリヒリしていた大学の成績発表も毎年、3月の10日だったっけ。
意識はせずとも、なんとなくこの日は、
僕の運命を手繰り寄せる日なのかもしれない。
この日、僕は人事の責任者に退社の意志を伝えました。3月10日は、今年も僕の運命をちょっとだけ動かしたんです。
退社を決めてから、まずは同期に会社を去ることを伝えました。なかなか言いづらくて、メッセージで直前になってしまった人もいるけど。
泣くと思ってなかった同期が、泣いてくれたり。
自分は思ってたより、大事にされてたんだなと思った。
人事部にいたり、直属の上司と一緒に住んでいたりと「僕が言う前にすでに自分の退社を知ってそうな人」から順番に伝えていきました。
同期は、きっといつでも、いつまでも自分の味方でいてくれる不思議な存在になると思うから、そのときできた精一杯を伝えて、去ることにしました。
最も迷惑をかけてしまった同じチームの同期には、なんだかバツが悪くて、きちんと挨拶できなかったのが心残りです。いつか話せたらいいのだけど。
〜Independence Day〜
休職期間に転職を決め切ることができないと見切った僕は、転職期間を延長しようと考えるようになった。
例えば、時給3000円の塾講師のアルバイトをしながらなら、月々20万円くらいは稼げて平日を2,3日空けられる。
とりあえずそんな風にして、転職期間を稼げるような生き方を探した。
幸い、勉強だけはしてきたので、上記のような条件のアルバイトはすぐに見つかり、とりあえず直近を生きることはできそうだと分かった。
ただ、このとき僕は自分の家からあんまり出れていなくて、24時間のうち18時間くらいをベッドの上で過ごしてました。
このときの僕は、お金を稼ぐことより何より、家から出る習慣をつくる必要があった。
ずっと気にかけてくれていた友人に、状況を伝えるとチラシをマンションやアパートのポストに投函する、ポスティングのお仕事を紹介してくれた。
もちろん、他の会社から休職期間に給与が払われてはいけないので、あくまでお手伝いという形だ。
大好きなラジオを聴きながら、ひたすら街を歩いて、ポスティングをしていく。
まさかラ・サールから慶應を出て、社会人になったはずの24歳で、チラシ配りをするとは思わなかったが、うつ病を抱えた今の自分にはおあつらえ向きな仕事だった。
その、ポスティングをさせてもらっていた会社の社長さんから
「人手が足りないのよ、ポスティング以外にもやってほしいこといっぱいあるから手伝ってくれない?」
個人として、自分の力を求めてもらった。
その社長さん自身も言ってたから、そのまま言葉を借りるが、僕の能力はその会社が何百万円かけても採用できないくらい持て余すのだそうだ。
任されたのは単純作業だった。だが、改善点をすぐに見つけて、もともと週に50時間ほどの業務量だったものを12時間程度まで合理化した。
だから、今僕は1週間で12時間、1日1.5時間程度しか働いていない。でも元々50時間ほどかかっていたときと同じか、それ以上の成果を出している。
その会社からは業務委託費として、新卒初任給にちょっと毛が生えた程度の金額をいただいている。その上、課題が解決されたその会社からは感謝すらしてもらえてる。
ありがたい話だが、本来こうあるべきなのではないかと思う。他人の課題を解決して、ありがとうという気持ちを、形として受け取る。
その目標が達成されたのなら、50時間かけていようが12時間しかかけていなかろうが、報酬は同じはずなのだ。
もちろんこのまま横ばいでは、いずれできる家族を養うところまでいけないから、営業活動して仕事を増やしていくつもりだ。(お前まず彼女作れよって思ったやつは連絡してきてください、はっ倒します)
とりあえず死なない。
人が求めてくれるだけで、生きていける。
2021年の3月10日は、僕の独立記念日になりました。
最後に少しだけ、「働き方」に対して僕の考えをつづります。
正直、前職では無茶な働き方をした。
心も体も壊してしまったし。
世の中は数学と同じで"定数"と"変数"があると思う。変えてはいけないところと、変えるべきところとも言い換えられる。
例えば、数学の問題でt=8という定数が与えられたら、その数を勝手に変えてはいけない。
8時間という労働時間が決まっているなら、その定数を変えるのは、やっぱり反則なのだと思う。
業務効率という変数をどう最適化するかというところに全てのパワーを注ぎ、業績を最大化させるのが仕事の醍醐味だと思う。
t=8という数字を前提に計算されていない事業計画や会社の目標数値は、定数のはずのtを10とか14とか、法令の範囲外の数値に飛ばしてしまうから。
もし、単純に時間を増やすことでしか仕事を消化できないのだとしたら、それはきっと何かがおかしい。
やり方がおかしいのか、知識がないのか、はたまた会社の計画が破綻しているのか。
考えて考えて、自分が出した答えを信じて、これからは歩いて行こうと思う。幸いにして応援してくれる人が少しはいるみたいだから。
また一年間がんばろう。いつでも胸張って、面白い人生歩んでるぞって言えるように。
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