未来のために。
さて、坂本龍馬という人物について皆さんはどれ程ご存知でしょうか?
幕末維新の志士で最も有名な人物といってもいいのでしょうが、いざ「どんな人なの?」となると結構曖昧なのかもしれません。
彼の「偉業」といえるものとしては
・薩長同盟
・大政奉還
・船中八策
・日本初のカンパニー設立
・日本初の海難事故裁判
などが挙げられますが大政奉還にしても彼自身が直接関わったわけではなく、明治新政府の指針ともいえる船中八策も直接的な建白書では無いため、彼がいなければ維新が成し遂げられなかった、といった評価に対しては疑問の声があることも事実です。
さて、表題の『未来』の話はどこにいったのか?
私は、歴史というものは壮大なるケーススタディだと考えています。
問題の背景を要素ごとに整理し、極力客観的に状況を判断し、最終的解決策が何故効果的だったのかを吟味(検証)することで同様の状況が発生した時に的確な対処方針を選択できると考えています。
歴史を過去の出来事、とだけ考えていては未来は見えません。
幕末のような「封建制社会」や鎖国状況に黒船が来訪するといった「外圧」がかかるなど、現代や未来ではあり得ないと思う人もいるかもしれません。
しかし、状況を考えてみれば決して全く起こり得ない話ではありません。
というよりも、まぁまぁ似通った状況にあるのかもしれません。《アメリカ幕府》ともいえる状況の中、朝鮮半島や中国、ロシアに主権を侵され、領土をさらに侵食されかねない状況といい、単純に置き換えることはできないとしても、全く無視できる状況的な類似とも言い切れません。
といってテロリズムによって国家を転覆させたり、武力で国家システムを変革させようとかいう物騒なつもりは勿論ありません。
要するに、状況的類似性が有るとか無いとかそういう話ではなく、その時、何故その行動をとったのか? そこにこそ学ぶべき未来があるのだと私は考えるからです。
何故、脱藩という罪を何度も犯した浪士が、幕府の要人と何度も会談し意見交換ができたのか?
何より、当時の土佐藩の身分制度の中で、坂本龍馬という一介の郷士(下士)が藩を動かすほどの影響力を持てたのか?
何故、脱藩浪士の龍馬が薩長同盟を主導できたのか?
何故、幕府軍艦奉行並の勝海舟の弟子になれたのか?
そして、何故、土佐藩の後ろ盾があるとはいえ、浪士結社である海援隊が紀州徳川家と談判して勝訴できたのか?
数え上げればキリがないほど、坂本龍馬という人物は不思議な結果を残しているのです。
坂本龍馬が凄い人物だった。
なんてチープで思考停止した結論を導き出すつもりはありません。答は彼の行動にあるでしょう。残された膨大な手紙や日記の類がそれを示していますが、ここではあえて明示しません。それは、それぞれがすべきことだから。そうした資料の中から、行動の真意や本質を掴み出すことさえ出来れば、それは初めてケーススタディとなり、要素を整理して未来に備える指針となりうるのです。
しかし、たかだか150年ほど前のことであるのに、残念ながら何もかもが明らかなわけでもありません。その間に脚色された情報も多々あり、何が真実かを見極める目も必要とされます。資料研究も必要ですが、その上でフィールドワークとも言える現場を見て感じることも大切です。何より彼が歩いた道、居たはずの場所を見て感じることは大きな手がかりになるはずです。資料上ではただ滞在した場所も山間の階段を登り切った際に見える景色が文字資料に色彩を与え、風の匂い、空気の暖かさが感情を与えます。そこに立つことは人物の行動を考える上でとても重要なことなのです。
にも関わらず、残念なことは、彼、坂本龍馬が居たと言われる場所の多くは失われていて、当時の面影を見させてくれないのです。
生まれ育った高知の生家も今はビルとなり碑が残るのみですし、定宿と言われていた伏見の寺田屋も鳥羽伏見の戦いの戦火で消失し、西隣に再建されたものです。また隠れ家として使われていた京都・三条の材木問屋「酢屋」も場所はそのままとしても現在は木製商品のギャラリーとなっており、2階に当時を再現した畳間と資料を展示したスペースを残しているに過ぎません。最後の地となった「近江屋」も今はかっぱ寿司(令和2年6月現在)となっています。江戸の修業先である千葉定吉道場はもはや跡形もなく路傍の碑版のみですし、土佐藩邸は国際フォーラムになっています。大阪の勝海軍塾であった専稱寺も今はビル街となり影も形もありません。
そうした中にあって、いろは丸事件談判の最終結審を行なったとされる長崎市玉園町の万寿山聖福寺は当時の建物や面影を感じられる非常に貴重な場所と言えるわけです。長崎でありながら、稲佐山によって奇跡的に原爆の被害を免れ、当時の伽藍をかろうじて残しています。建物の老朽化は進み、危険な状態にある物もありますが、しかし未だ健在なのです。
いろは丸事件談判の行われたといわれる方丈の間も、現在も使用はされていますが、危険な状態にあります。屋根板は傷み雨漏りや土ぼこりが落ちるなどが激しく、床下も傷んでいるため歩くたびにギシギシと音を立てます。
現在、山門、天王殿、鐘楼、大雄宝殿は国より重要文化財に指定されており、修復事業が決まっています。しかし、談判が行われた「方丈の間」のある厨は文化財から外れていて修復対象外となっています。このままでは、寺の伽藍は守られても、厨は崩壊するか、できる範囲で修築して往時の面影を失わせるしか無い状況です。
全て残すことが良いとは思いません。現代を生きる我々が生活するために新しいものを作っていくことは大切なことです。しかし、今そこに在る物を残し続けることは未来を生きる人たちに進むべき道しるべの手がかりを残すことになると、私は思います。
今、在るから残すことができます。失われてしまってからでは、もう取り返しがつきません。今ならまだ残せるのです。
そこで私たちはこの聖福寺が歴史的場所であることを伝えるべく、坂本龍馬の銅像を建立・奉納することにしました。この半身像を見ていただき、この地で日本初の海難事故裁判が結審した場所であると知らしめ、坂本龍馬の確かな「あし跡」を記し残したいと考えました。
そのために発足させたのが、「長崎・聖福寺に坂本龍馬像を建立する会(通称・ふくりゅう会」です。この半身像にまつわるストーリーはクラウドファンディングのページとその映像に詳しく掲載されていますのでここでは省きますが、この銅像を建立するための台座製作費用は全国の坂本龍馬を愛する同志の皆様のおかげで既に達成いたしました。しかし、もとよりこの銅像は、坂本龍馬の事績である「いろは丸事件談判の地」である聖福寺を、方丈の間を残していこうという主旨で建立・奉納されます。幸いクラウドファンディングの期間は7月22日まであります。このまま支援募集を継続させていただき、台座費用や諸経費を差し引いた金額を聖福寺修復基金にと致します。
この運動は、長崎の一つの小さなお寺の話ではありません。坂本龍馬をケースモデルとして人生を考える未来を生きる人のための道しるべを残すことだと考えます。どうか、どうぞ、この思いに何かを感じて頂いた方には、行動を期待したいと思います。
ふくりゅう会 事務局長 日浦明大(映像監督)
#坂本龍馬 #万寿山聖福寺 #歴史 #クラウドファンディング
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