ケネス・スラウェンスキー 『サリンジャー 生涯91年の真実』

★★★★☆

 2011年に出版、2013年に翻訳出版されたJ・D・サリンジャーの伝記本。訳者は田中啓史。サリンジャー関係の訳書を多数出しているようです。

 執筆者のケネスは熱心なサリンジャー・ファンで、サリンジャーのファンサイトを運営していたようですね。そのため、全編を通じて中立的な文体ではあるものの、サリンジャーに対する好意的な眼差しに溢れています。
 サリンジャーの文学と人生との繋がりに焦点をあて、ゴシップ的な話にはほとんど触れていません。とりわけ、隠遁生活中の家庭生活や女性関係についてはあまり踏みこんでいません。プライヴァシーを詮索されることを何よりも嫌ったサリンジャーに対する敬意の表れでしょう。

 とにかく謎の多い秘密主義者として知られているサリンジャーですが、2010年の没後にこうした本によって、丁寧かつ品よく背景が明かされるのはサリンジャー好きにはありがたいです。
 サリンジャー関連の本のなかには交際関係にあった女性からの暴露や手紙を公表したゴシップ寄りの本も出ているようですが、そういうのはあまりよろしくないかと思います。興味はありますし、その手の本を読んだ友人の話だとかなりおもしろいみたいですけど、それでもいかがなものかと。

 偏執的で変わった人だったという話はちらほら目にしていましたが、伝記でまとめて読むと、いやはや想像以上でした。潔癖で神経症的で、完璧主義者で秘密主義者、宗教に傾倒していて禁欲的だけど俗っぽいところもあり、深いトラウマとオブセッションを抱えていた……相当にむずかしい人だったようですね。
 清濁併せ呑むといったことができず、私生活に触れられることや自作の扱いに納得できないところがあると、激怒したそうです。文学的に成功してからは、その傾向が強まり、頻繁に『激怒した』という表現が出てきます。
 句読点を一つ付け足しても「激怒した」ほどの完璧主義者なので、文学の商業主義的な側面とはそりが合わなかったのでしょう。それゆえ、編集者とぶつかることが多く、成功してからは信頼できるThe NEWYORKERの編集者とだけ話し合い、ほとんど密室で完成稿まで仕上げていたようです。

 その反面、信頼した人に対しては誠実だったようです。子供や地元の人との関係も良好だったみたいですね(少なからず問題は起きたようですが)。もっとも、家庭生活は円満とはいかず、2度離婚しています。娘のペギーが本を出しているので、そちらに詳しいかと思います(そちらの手記には家庭内のサリンジャーの姿がカラフルに描かれているようです)。

 600頁長のボリュームなので、読み応えたっぷりです。重いので、手が疲れてきます。電車で片手で読むのには向きません。

 文学史に燦然と輝く作品を残しながらも、発表した作品は少なく、実に独自の道を歩んだ人でした。僕も一通り読んでいますが、不思議なところがありますよね。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がどうしてあれほど深く残るのか、話型や構造だけでは理解できません。サリンジャーが魂を削って書いたものだから、というのが僕にはしっくりきます。

 書くことと生きること、この二つがこれほどまでに一致した作家もいないかもしれません。狂気すれすれのところまで作品と実人生がシンクロしていった結果、私生活は安定せず、隠遁生活を余儀なくされ、作品をコンスタントに発表することができなくなったのではないでしょうか。
 非常に興味深い一冊でした。

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