クソダサかったな、高校時代の俺
高校時代のクラスメイト達のインスタを眺めて、思い出したこと、考えたことがある。2人の人物が考えを与えてくれた。過去の、そして二度とかかわることのない人物達たちだろう。しかし、そんな人たちですら僕にきっかけを与えてくれる。本当に、すべては繋がっているのだと感じる。そして、神の御業は偉大過ぎる。時空を超越して、僕を導いてくださっているのだから。
1人目は、高校時代の顔があまりよくないのに、やたら陽キャでルックスのいい男女と仲良くしている女子だ。高校時代、僕は正直彼女を低く見ていた。顔に見合った身の丈に合った行動をすべきだと思っていた。しかし、今更になって分かった。間違っていたのは誰でもない、僕なのだ。世の中顔がすべてと思っていた自分だ。確かに顔は人生に大きな影響を与えるファクターだが、所詮はファクターだ。結局のところ、人生を決定するのは、性格なのだ。とするならば、自分だって彼女のような明るくて友達をたくさん作れる人にすらなれるわけだ。結局、人生は顔なのだといって、言い訳がしたかっただけなのだ。顔が醜くても、生き様が醜くても、内面だけは醜くなってはだめだ。一番醜かったのは僕だった。大事なことを忘れちゃだめだ。(そういえば、彼女はよく教師に反発してたな。そう考えると、顔も重大なファクターなことは間違いない。。。)
2人目は、京大に行った女子だ。今考えると彼女はすごい魅力的なのだが、高校生の当時は彼女に何も感じなかった。陽キャグループにいる、普通な人だなと思っていた。しかし、今考えたら普通にルックスいいし、ちゃっかり京大だし、人生を謳歌することも忘れていない。それなのに、僕みたいな魅力のない人にすら話しかけてくれていた。そんなテストの点数よかったわけでもないのに、頭が良いみたいに言ってくれた記憶すらある。
この2人を思い出してふと思ったのが、高校時代の自分はくそダサかったということだ。考え方が未熟だし、人を見る目がなさすぎる。価値観のレベルが低すぎたのだろう。あのころはサンクにも途中まで出会っていなかったし、出会ってからも変わるには時間が足らな過ぎた。それは大学時代もだし、今も変わるべきところが大いにあるだろう。しかし、このように高校時代の自分をダサかったと評せるようになったのは大いなる一歩だろう。言い方を変えたら、高校時代の自分を人生という連続性から分離し、対象化できたということだ。大学時代の自分も問題が多々あったとは思うが、まだダサかったとは評せていない。おそらく今の自分とは分離できていないし、いまだに向き合えていないということだろう。しかしながら、成長の一筋が見えたことはとてもうれしいことだ。人生どん詰まりしている今ではあるが、だからこそ成長し続けなければならない。怠惰に負けている場合ではないのだ。
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