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自分の機会を自ら作らないという意思

私は消極的な性格である。そして、日々を惰性で生きている部分がある。尊敬する人の話を聞くとそうなりたいと思う反面、継続的に身体を動かすのが苦手ですぐに飽きてしまう。だからこそ、自分が動くシステムを共作してくれないかと頼みたい人には頼むようにしている。

こういう性格は進学校には珍しいようで、概ね自分のことは自分でやるという習慣がついている。そのように見えて、塾や、「優秀な両親」という快適なシステムに潜在的に依存していると感じる。

母は中卒で父は大学中退の私は勉学や活動などに対してきっかけとなる部分を自分で作る必要がある。月謝を払ってもらうなどという継続要因を作ってくれるのは親だが、自分が何をしたくてどこに行きたいのかなどを伝えるのは自分発なのだ。(話が違うかもしれないが、その結果私は旅行に行ったことがない)

今まで自分と信頼する方々とで共作したシステムは何個もある。投資部や教育関連、吹奏楽部での指揮者レッスンなどでは発足のきっかけに大きくかかわったと思う。

ここでは指揮者レッスンの話をしたいのだが、私が発案し講師の先生にお願いをした分、私は積極的に参加しているつもりである。しかし、私以外の指揮者が私の高校には5人いるのだが、彼らはみなシステムが上から降ってくるものだと勘違いしている。

指揮者と学生指揮者合わせて7人という超コンパクト専門的コミュニティの中ではひとりひとりがコミュニティ運営に大きく関与できるチャンスがある。誰かが何かをやりたいといえばそういう方向になるであろうし、言わなければその機会を失うだけである。そして、学生指揮者は勿論積極的な参加(発言、質問など)をしないのである(指揮が上手くなりたい人向けの任意参加レッスンにも関わらず!!)

これは一体何を意味しているのだろうか。私は共生的意識の低さと外発制度依存が問題だと思う。

共生的意識の低さは学校や塾でも、基本的に授業は1対everyで行われ、学習も家族や友人とではなくそれぞれという意味でのeveryoneが行う。共に学ぶためには各々の学べるようであるための努力が必要なことを知らない。学校ではこれを先生が権力を片手に実行している。

外発制度依存は、上から降る仕事を処理すれば能力が伸びる半生を辿ってきた結果、自分で分かれ道のどちらかを選んだり、そもそもそういった森に入るのかを決断する能力が養われていない。

二点の問題点は裏を返せば短期的には成績がいい。一次関数で伸びる。一方これを解決した状態では最初は困難があるものの指数関数的に成長が育まれると思う。

今回の記事では論理が飛躍している部分が沢山あるのでこれからも考察を続けていきたい(ただし不定期なのである)

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