「泣く子と地頭には勝てない」
この古い諺は、中世期鎌倉・室町期のもののようにおもわれますが、この「地頭」は近世期の旗本のことで、旗本の横暴ぶりを伝えています。
例えば、とてもひどい例として、相模国高座郡栗原村(現在の座間市東部)にあった町野氏は、高座郡や大住郡(いまの大磯のあたり)などに5,000石もの所領を持つ大身ででしたが、延宝年間年貢率は水田64%・畑47%で、平均年貢率は56%でありました。ところが、天和元年には平均年貢率は、63%, 同二年74%, 同三年73%, 元禄十年81% とどんどん上昇してベラボーな高率となっていたと伝えられています。
この町野氏の苛斂誅求に対して、どういうわけか近隣の高座郡大谷村の名主鈴木三左衛門が、幕府に越訴をしようとしまして、事前に発覚、斬首されています。
旗本は江戸期を通じてずっと金に困っていて、ほとんどの旗本は自領内に対して「御用金」を課していました。その金額たるやこれまたベラボーで、自領の「あがり」である米の収量の数倍(!)ということもままありました。江戸期を通じて旗本は、絞れば絞るほど百姓からは銭が出てくるとおもっていた節があります。ですので、多くの旗本領では、年貢よりもこの御用金を巡って領民は領主と鋭く対立しました。都筑郡中鉄(なかくろがね)村と寺家村(いまの横浜市青葉区)の領主筧氏はわずか150石の小身でしたが、文化十年(1813)領民に御用金を課し、領民と対立。両村全農民は傘連連判状を作って血判し、決死の覚悟で領主に対抗、農民たちの御用金拒否運動は勝利に終わったそうです。