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【エッセイ】公募、選ばせてもらいます

時々エヴァンゲリオンの少女アスカが降臨する。

母親に褒めてもらいたい少女アスカが駆けてくる。あの有名なシーン。

詩の公募とパイロットに選ばれる違い。
前者が私で後者が少女アスカ。
私は少女アスカをおもう。
いたこのように憑依させる。

そう!シンクロする!

…………一旦落ち着こう。

アスカはパイロットになりたいのではなくエヴァのパイロットに選ばれたかったのだ。
それが叶う喜びは他のなにものにも比べようがない。私がシンジくんだったら息を合わせて協力しなさいとミサトさんに命令されてもシンクロに乱れが生じる。
使徒に負けてしまう。

はてさて、私にとっての公募とは…

【公募、その先に】←エヴァのエピソードタイトルをイメージしていただきたい。

少しおふざけがすぎてます…すみません
話を戻します。

公募といっても何でもいいってわけじゃない。
SNSを始めてから世の中には沢山の公募があることを知った。
スマホを手にするそれまでの(2020年4月以前の)私には書店で見かける公募ガイドのごく一部の限られた募集しかなかった。毎月が見慣れた天井だった。(まだ言う)
真新しい情報もなく、入れ替わりもない。
狭い世界だった。

それが、今ではどうだろう。
スマホにはわんこそばのように詩をはじめとするその類いの公募が氾濫している。

下手な鉄砲数撃ちゃではないが、SNSで目にした公募という公募を片っ端からエントリーすれば、なんとかひとつくらいは運良くかするんじゃないかしら?と邪な考えさえおこさせる。

選べる立場でもないが選ぶ権利はある。
誰にでも。皆等しく。権利はある。

エヴァに乗れと命令されても断る権利はある。
(結局乗るのだけど)

どんな公募か
誰を看板にしているのか
誰が選考するのか
どんな背景があるのか
などなど

こちらは藁をもつかむ気持ちである。
目的の為に過程をないがしろに見失い本来の自分を捨ててはいないか?
なんの為の公募か。
なぜ選ばれたい?
極論、なぜ公募にしがみつく?
自分に問う。

捨て曲ならぬ捨て詩などはひとつもない。
たいせつな作品を胸をはって送り出す。
得体のしれない
どこの馬の骨とも知れぬ宛先に送ることができようか。

なんか違うなと思えばごめんなさいします。
怪しい匂いってこの「なんか」なんだと思う。
選ぶなんて何様だと選ぶ側に罵られようと。

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