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【エッセイ】厄年がこわい

私は「妖怪」が好きだ。
物心ついた頃から飽きもせず「ゲゲゲの鬼太郎」ばかりみていた。
鬼太郎が好きだったから妖怪も好きになったのか妖怪そのものが好きだったから鬼太郎も好きだったのか…。

どちらにしても私は幼い頃から目に見えないものへの興味が人一倍あったのだと思う。

近所の竹やぶで砂の音がしないか耳をすませていた。竹やぶに現れるという妖怪、砂かけ婆がいるかもしれないからだった。
そう本気で信じていたし今もその心はなくなっていない。

物覚えの悪い私でも好きこそもののなんとやら…

妖怪辞典(水木しげる著)を図書館で借りて暗記した。妖怪の名前ならすんなり頭に入ってきた。
勿論テストの点数に反映することはなかったが、周りのともだちが自動車の名前やウルトラマンの名前、スポーツ選手のプロフィールを覚えている中で私は妖怪辞典をノートに描き写し共感もされず妖怪について語り合うこともないのにただひたすらひとり記憶しつづけた。

残念ながらばったり妖怪と出くわしたことは今のところない。
でも、いつか…なんて、それは誰にもわからない。心の片隅にそんな期待を残している。


だからといって私は占いやそれらの類を盲信などしていない。
何気なく目にした新聞の占いのコーナーや星座占いランキングなんかは1位なら気分もよくなる。都合のいい時だけ参考程度に受け取っている。そんな距離感である。

目に見えないものへの憧れや興味、好奇心は幅広いが私には民俗学的な「妖怪」や「物の怪」「怪異」「昔話」などのことを指している。

人をしあわせにしないその他の目に見えないなにかは私は認めたくない。

〇〇しないと不幸になるとか、来年まで〇〇は避けた方がいいとか…。
人を縛る目に見えないなにかはなにかが違う。
そもそも縛られたくない。縛ってはいけない。
私は妖怪に縛られたことはない。

そうカテゴライズして、惑わされず歩んできたのだが、ただひとつ、妙に最近「厄年」について考える。縛られている。
昭和58年生まれの数え年が前厄だとどこの神社の入口にも立っている看板に書かれている。

いまいち満〇〇歳と、数え年の違いも完璧に理解していない。数えは2歳引けば満になるの?程度で…それも危うい。きっと正確には違うはず。
だが、本厄が来年なのは間違いなく、前厄が今年なのも事実である。
だが、今年っていつからなのだろう…
元旦から?誕生日から?いや、そうなると早生まれになればなるほどずれていかないか?………
結局考えるのをやめて、しばらくするとまた考える…を、繰り返している。

やはり厄払いはしなければいけないよな〜とか。
なんだかしないといけない気がしているということは信じているからなんだよな…と、認めたくない気持ちと向き合ってしまう。
それじゃあどっぷりじゃないか。
それに抗って厄払いしないという選択肢もある。
100人が100人全員厄払いするとも思えない。
が、やはり気になってしまう。
それほどまでに「厄年」はこの日本に今も深く根付いているという証なのか。

二十代でも厄年は存在していた。
だが、その年齢に照らし合わせてもよほど該当しない歳の方が悲惨だった。
なんならどの歳も厄年だったと言える。
そう振り返るとなんだかなぁとなる。

ある人は四十代の厄が本当にこわいんだとも言う。
なんなんそれ…と、思いつつその話はよく耳にしてきたし、進行形でもある。

厄年の恐怖に怯えているからか、目についたり、飛び込んでくる情報がそれに繋がってしまう。
ある有名俳優の亡くなった年齢が40(満)だったり、なんやかんやで40を意識させられてしまっている。
正直びびってしまう。

そんなことは深く考えずしておけばいいのだろう。
しないよりはしておけばいいじゃないかと、そんなものなのかもしれない。

そこらへんが日本人の脆いところだよな〜と、どっちつかずで特定のものには「するべき」の姿勢になる。させられる。今の私のように…。

ワクチンの化学記号もない厄払いというものは、こじつけるなら統計学なのだろうか。

体の変わり目といってもそれだって個人差もあるし、ずれもあろう。
なぜ、厄年などというマス目を作った…歴史よ。

厄介な目の上のたんこぶなどいらないし、煩わしいったらありゃしない。

改めて、なんなんだ…厄年。こえーよ。

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