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タジキスタン・パミール再訪記11 〜ホログ初日〜

2023年4月25日未明、ついにパミールの中心地ホログ(ゴルノ・バダフシャン州州都)への再訪を果たした。久々のホログの町が懐かしい。初日は知人に会う予定である。


宿の朝

昨夜(というより今朝早朝)の就寝は午前5時だったので、午前中はなるべく寝ておくようにしようとした。しかし、ぐっすりは眠れず、ちょくちょく起きてはトイレも兼ねて宿の中を歩いたりした。

何度目かに宿の中を歩いていた時、宿の入口近くの広間で、スウェーデン人だというお兄ちゃんとフランス人だというお兄ちゃんに遭遇した。聞くと、ワハーンやムルガブを含む全10日間くらいのツアーをしているとのことで、昨日ツアー出発地のドゥシャンベを出発したとのことだった。また、今は3人だが参加者をもう1人探しているとのことだった。私は人に会う予定もあるので参加は難しいが、Tさんなら参加するかもしれない、と思った。

後でTさんが起きた時にそのことを伝えると、Tさんは「それ、自分のためにあるようなもんじゃないっすか」と言った。フランス人氏らはその時ちょうど宿を不在にしていたが、Tさんは日程の関係で部分的になるが参加させてもらう交渉をするとのことだった。

私のほうは、今日は知り合いのIさんおよびLさんに会う予定である。Iさんから連絡があり、ランチをすることになったので、待ち合わせ場所の中央アジア大学ホログキャンパスに向かうべく、11時半頃に宿を出た。

宿を出る前、これで最後かもしれないのでTさんに挨拶をしてから行こうと思ったが、Tさんは宿の中にはいないようだった。宿の広間にいたフランス人氏に、Tさんによろしく伝えてほしいと頼んで宿を後にした。

宿(の出口付近)から眺めるホログの通りと山

中央アジア大学

宿からは1番のタンゲン(マルシュルートカ)に乗り、中央アジア大学のあるホログ東部へと向かった。前回行った Aga Khan Medical Centre までの道では、おぼろげな記憶とともに車窓を懐かしみつつ眺め、初めて通るそこから先の道は新鮮な気持ちで景色を眺めた。

中央アジア大学ゲート前付近

中央アジア大学のゲートで守衛さんにIさんに会いたい旨を伝え、Iさんから返事があるまでシュグニー語で少し雑談をした。間もなくIさんからの確認が取れ、ゲートの中に入った。Iさんと同じく中央アジア大学で会うことにしていたLさんにも連絡を入れた。

ゲートから建物のある平地へは、やや長めのなだらかな坂道を登った。ホログの町から少し外れたゲート付近もなかなか良い景色だったが、坂の途中からのホログ中心部方面の眺めも素晴らしかった。

ゆるやかな坂道を歩く
坂の途中からホログ中心部方面を望む

建物のある平地に辿り着き、やや遠くにある建物のほうへ歩いていると、遠くでIさんと思しき人が手を振っていた。果たしてそれはIさんだった。会えたことを喜びつつ、まずは大学の食堂で食事をすることになった。

食堂にて

食堂では、ちょうどお昼の時間で、学生や職員で賑わっていた。昨日の疲れでか、食欲はあまりなかったものの、いろいろと選んでしまい、結果的にかなりの量をプレートに取ってしまった。食欲はあまり無くても昨日からあまり食べていないから食べられるだろう、とも思っていたが、結果的にかなりの量を残してしまった。非常に申し訳ない……

お金をどう払うのか気になったが、Iさんによると食事は無料とのことだった。ますます申し訳ない……

昼食。いろいろ取りすぎてしまった……

ブルシャスキー語を使う

昼食後、食堂を離れようとすると、昨年お世話になったGさんに偶然遭遇した。今日は用事があるとのことで会う予定になっていなかったが、顔を見ることができて良かった。シュグニー語と英語で簡単に挨拶を交わし、それではまた後日、ということで別れた。

食堂を離れたところで、誰かが声をかけてきた。Gさんの友人のWさんだった。Wさんはパキスタン出身で、母語はブルシャスキー語ヤスィン方言である。

「ボルトゥン・バ?(お元気ですか?)」

私はWさんにブルシャスキー語で言ってみた。

「ジャ・シュア・バ。ウン・ボルトゥン・バ?(私は元気です。あなたは元気ですか?)」

「ジャ・シュア・バ。(私は元気です。)」

私のブルシャスキー語力はここまでなので、その後は英語になった。ブルシャスキー語も、本当は「私元気です」と返事をしたかったのだが、「も」をどう言うか未把握だった(「ジャ・カ・シュア・バ」と言うようである)。いろいろボロボロではあるが、生まれて初めてブルシャスキー語を対面で使うことができ、嬉しかった。

ブルシャスキー語(またはブルシャスキ語)は、パキスタン北東部ギルギット・バルティスタン地方で話されている言葉のひとつで、バックパッカーから「桃源郷」と呼ばれ親しまれているフンザ谷ではブルシャスキー語フンザ方言が主要言語となっている。ブルシャスキー語は、基本的にインド・ヨーロッパ語族に属する周囲の言語とも、その他パキスタン国内またはその周辺で話されているドラヴィダ語族、テュルク語族、シナ・チベット語族の言語とも系統が異なる、いわゆる「孤立した言語」であり、確実に近縁だと言われている言語は知られていない(未確定の仮説ならあるようであるが)。

私は言語オタクなので、ブルシャスキー語という言語名自体はけっこう前から知っていたと思う。ただし、系統に関する未確定の仮説の他は、「パキスタンかそのへんのどこかで話されている言葉」くらいの知識しか無かった。

しかし昨年(2022年)末頃、ひょんなことからブルシャスキー語がシュグニー語と地理的に近い場所(パキスタン北東部のギルギット・バルティスタン)で話されていることを知った。そしてそれをきっかけに、ブルシャスキー語を中心としたパキスタン北東部の言語の研究者である吉岡乾氏の「現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。」という本を読んでみた。ブルシャスキー語圏がタジキスタン側パミールと地理的に近いだけでなく、主にイスマーイール派関係で文化的にも近いようだということを知ったのは、この本を読んでからである。

吉岡氏の本の中では、タジキスタン側パミールと似て異なるとも異なって似るとも言える様々なエピソードとともに、ブルシャスキー語(フンザ方言)の基本表現も紹介されていて、全くの未知の言語だったブルシャスキー語が少し身近に感じられた。

その後、当のブルシャスキー語(ヤスィン方言)を母語とするWさんとも知り合う機会があり、ブルシャスキー語ヤスィン方言のフレーズをいくつか教えてもらうことができた。

かくして私は、ブルシャスキー語を対面で使う機会に恵まれることになった。この機会をもたらしてくれたご縁に感謝の限りである。いつかパキスタンでもブルシャスキー語を使ってみたい。

忘れ物 その2

昼食後はIさんの部屋を少し見せてもらい、その後は中央アジア大学を後にした。たまたまキャンパスから下に降りていく車があったので、Iさんの計らいでゲートのところまで乗せてもらうことになった。

大学のゲートの前からタンゲン(マルシュルートカ)に乗り、宿に戻っている途中で、Lさんに会っていないことに気付いた。大学のゲートに到着して坂を登っているところで連絡を入れたにもかかわらず、その後はコンタクトを取るのを完全に忘れてしまっていた。

昨夜(今朝)のリュックに続いて、かなり致命的な忘れ物をしてしまった……。Lさんにお詫びのメッセージを送り、明日もまた中央アジア大学にお邪魔させてもらうことにした。

宿に帰還

宿に戻ると、Tさんが戻っていた。件のフランス人氏他のツアーに参加することで話がついたようである。改めてTさんに挨拶をし、旅の安全を願った。私のほうは宿で休むことにした。

夕方、宿を出てグント川を渡った対岸まで少し散策をし、スーパーでの買い出しを行った。スーパーは、去年来た時の建物から向かいの建物に移っている気がしたが、私の気のせいかもしれない。夕食(夜食)には宿の前のカフェ・バラカトでシャウルマを食べた。

グント川を渡る吊橋
吊橋からグント川の下流側(西側)を望む。正面はアフガニスタン側の山。
グント川の上流側(ホログ中心部方面)を望む
グント川南側の街並み
夕食(夜食)のシャウルマ

ペルシア書道の練習

宿では夜、ペルシア書道の練習をした。某ペルシア書道教室の課題提出の締め切りがタジキスタン旅行中にあり、練習および課題提出の時間が取れそうなのかホログ滞在中だけだったので、書道セット(筆、墨汁、紙、下敷など)を荷物の中に入れて日本から持ってきていた。

墨汁は、百均で買った化粧クリーム入れ的なものにスポンジに染み込ませて入れ、念のためティッシュで包んでビニール袋に入れていた。書道セットを開けてみると、ティッシュに墨汁が染みていたものの、予想の範囲内だった。

練習をしていると、夜も遅くなったのでそこまでにして、時間があれば後日もう少し練習して課題を提出することにした。

ペルシア書道の練習。題材はルーミー「精神的マスナヴィー」の「葦笛の詩」冒頭部より。「بشنو از نی چون حکایت می‌کند / از جدایی‌ها شکایت می‌کند(聞け、葦笛がいかに語るかを / 離別(の悲しみ)をいかに訴えるかを)」。

(続き)

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