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パキスタン(ギルギット・バルティスタン)旅行記2 〜イスラマバード→ギルギット〜

2024年4月27日。パキスタン到着の翌日は、イスラマバードから空路でギルギットへと向かう予定、だったのだが……?


イスラマバード周辺

パキスタン最初の朝。7:30に朝食をとり、8:00にSIM購入のために宿を発った。SIMを入手できる場所はイスラマバードの中心部で、宿(空港近く)からは30kmくらいあるらしい。車代は4000ルピー(宿→イスラマバード中心部→空港を全部含めて)とのことだった。

車にはイムラン・カーン前首相の写真が大きくラッピングされていた。イムラン・カーン前首相は、名目上は汚職疑惑で失職、拘束されたが、実際には政治弾圧だとも言われており、若者を中心に彼を支持する人は多いとされている。

SIM購入@イスラマバード

地図アプリでイスラマバードの街に入っても、道路の両側は木々が多く建物はあまり見えない。人口200万人の都市とは思えないくらい生活の気配がしない気がする。パキスタンの人からは、イスラマバードはパキスタンの他の街とは全く違う美しい街だと聞いていたが、人に溢れている(と思われる)パキスタンの他の街と比べると、この雰囲気は全くの別世界で美しく感じられるのかもしれない。何か街っぽくない物足りなさも感じたが、緑が多いのは良いなと思った。

イスラマバードの大通り。何枚か写真を撮っていた気がしたが、写真を見返してみるとこれ一枚しか撮っていなかった。

SIMを買えるお店の前に着いたが、運転手のお兄ちゃんが店の警備の人(普通に小銃を構えていた)に聞くと、店は9時に開くとのことで、それまで待つ必要があった。両替もしたかったが、両替屋が開くのは9時半とのことだった。外は小雨も降っているので、車の中で待つことになった。

9時になってお店の中に入り、受付のお姉さんからSIMの種類等について説明を受けた。昨日の空港でも今朝の宿周辺でも女性はほとんど見かけなかったが、イスラマバードでは女性の歩いている姿も時々見かけ、このお店では店員さんの女性率も高めである。
SIMはZONGの20GBのものを買った。こちらもお店の側にも小銭が無かったが、クレジットで決済することができた(明細によると1300ルピー=753円)。3時間ほどで使えるようになる、とのことだったのだが、結果的にこのSIMがパキスタン国内で通じることは無かった……

フライトキャンセル

雨の降るイスラマバード空港に到着し、運転手をしてくれた兄ちゃんにチップ200ルピーを渡して別れ、国内線乗り場に向かった。

空港内で目にしたのは、ギルギット行きの飛行機が荒天のためキャンセル、との情報だった。
「ギルギット行きの飛行機はキャンセルになることが多いが、この季節はたいていは大丈夫」という情報を見ていたこともあり、飛行機がキャンセルになるというのはあまり予想していなかった。

ギルギット・バルティスタンのもうひとつの中心地であるスカルドゥ行きの飛行機は飛んでいる。後に知ったところによると、空港周辺の地形的な関係でスカルドゥ行きの飛行機のほうがフライトはずっと安定しているらしい。
スカルドゥも行ってみたい場所なのだが、ギルギットから往復するとなるとそれなりに時間がかかるはずであり、今回行けるかどうかは微妙だった。もしもスカルドゥ行きの飛行機にしてスカルドゥから陸路ギルギットに行くことにしていたら、スカルドゥにも行ける上に、ギルギット到着もスムーズだったかもしれない。惜しいことをした気がした。

ともかくも、フライトキャンセル関係の手続き的なことをしなければならない。近くにいたおじさんが運行会社のPIA(パキスタン国際航空)の窓口まで案内してくれたが、窓口の人によると返金は代理店経由で行われるとのことだったので、予約したサイト(booking.com)に問い合わせることにした(※帰国後、booking.comに返金について問い合わせたが、本稿執筆時点で返金は行われていない)。

ギルギット行きの交通手段

ギルギット行きの飛行機がキャンセルになってしまったので、ギルギットには別の方法で行く必要がある。
PIA窓口に案内してくれたおじさんにギルギットまでバスで行きたいと言うと、午前11時のバスと午後8時のバスがあり、午後8時のバスに乗る必要があるとのことだった。午前11時のバスは間に合うか微妙な時間だったが、間に合うかどうかおじさんに聞いてみたところ返答は無かった。

午後8時のバスまで待たないといけないか、と思っていると、おじさんから「車でギルギットに行かないか」と提案された。いや、それはすごく高いだろうと思って値段を聞くと、50,000ルピー(25,000円以上)とのことだった。やはりすごく高い(もっとも、日本国内で同距離・同時間だと更にもう何倍もするかもしれないが)。
おじさんに25,000ルピー(飛行機がだいたいこのくらいの値段)にならないかと言うと、おじさんは「会社のオーナー」だという人と電話で相談をした。最終的に35,000ルピーでならOKということになり、それで行くことにした。

「会社のオーナー」が空港まで来るとのことなので、おじさんの車の中で待つことになった。駐車場の車は、どれもフロントガラスの上にアラビア語で「マーシャッラー」と書かれていた。フロントガラスのマーシャッラーは、ここに限らず旅行中どこでも見かけた(この時は「マーシャッラー」の具体的な意味は忘れていたが、「神のみ心のままに」という意味で、「邪視よ去れ」的なニュアンスで事故避けのお祈りとして使われているようである)。

スマホはまだネットにつながらない。おじさんのテザリングでネットを使わせてもらうことにした。ギルギットで合う予定の知人のSさんに、飛行機がキャンセルになったので車で行く旨を知らせなければならない。
メッセージアプリでSさんにメッセージを送り、ふとメールを見てみると、フライトキャンセルのメールが届いていることに気付いた。今届いたものではなく、今朝まだ宿にいる時に届いていたものを見落としていたようだ。恐らく「そろそろフライトの時刻ですよ」系の案内のメールだと思ってスルーしていたのだろう。空港に着くまでフライトキャンセルの可能性は全く考えていなかった……
宿でこのメール(の内容)に気付いていたら、もっと別の手も打てたかもしれない。

ギルギット行きの車

ある程度待ったところで、「会社のオーナー」のおじいさんが来た。手持ちのルピーはギルギットまでの車代には全然足りないので、どこかでキャッシングか両替をする必要がある。まずは空港近くの銀行まで連れて行ってもらった。

空港近くの銀行は、窓口は閉まっているようだったがATMは動いていた。しかし、クレジットカードで金額(とりあえず50,000ルピー)を指定してキャッシングしようとするもうまくいかず、別のカードを試すもだめ。どうしようかと思ったが、最初のカードで金額指定ではなく選択肢にある「10,000」を選ぶとキャッシングすることができた。キャッシングをもう4回繰り返し、予定の50,000ルピーを入手することができた。

ちょうど、Sさんから返信があった。「バスではなく車で来い」とのことだったので、車で行く予定だと連絡した。

銀行からしばらく走ったところで、オーナーのおじいさんに「ギルギット行きの車」を案内され、それに乗ってギルギットに行くことになった。おじいさんに仲介手数料(?)の10,000ルピーを払い、ギルギット行きの車の運転手に25,000ルピーを払うとのことだった。車に乗ると、運転手のお兄ちゃんがまずは15,000ルピーを払うように言ったので、15,000ルピーを渡した。

イスラマバードからギルギットへ

お兄ちゃんの運転する車は、一路ギルギットを目指して出発した。
お兄ちゃんはギルギットのチラス(ギルギット市より130kmほど手前)の出身で、母語はシナー語とのことだった。
チラスという町の名前は知らなかったが、シナー語という言語は、ギルギットの言葉として名前だけなら馴染みがある。ギルギットの世界に既に少し入った気がした。

ウルドゥー語と英語と

車は、地図アプリで見てみると、イスラマバードからいったん西側に大きく曲がって、それから北東のギルギット方面を目指すようだった。

お兄ちゃんとは、主に英語とウルドゥー語で会話を試みた。必要最小限の会話はウルドゥー語で行うことができ、Duolingoヒンディー語コースで勉強してきた成果を実感することができた。
一方、必要最小限を超える会話をしようとすると、私のウルドゥー語はまだそのレベルに達していない。しかし、英語を使おうとすると今度はお兄ちゃんに通じない。どうも、私のウルドゥー語力とお兄ちゃんの英語力は概ね同程度のようである。
私がウルドゥー語で言える内容であればお兄ちゃんは英語でも理解できるが、私がウルドゥー語で言えない内容になるとお兄ちゃんは英語では理解できない。どうももどかしい。しかし、お兄ちゃんの英語は、運転手として外国人を乗せる上で最低限必要なレベルは押さえていると思われる。私もそれに近いレベルのウルドゥー語(ヒンディー語)を短期間で身につけることができたのだから、Duolingoヒンディー語コースはよくできているな、と思った。

シナー語とシュグニー語と

お兄ちゃんはシナー語話者とのことなので、シナー語でも話してみることにした。と言っても、シナー語の表現は以前覚えようとしたことはあるものの未だ覚えられていないので、日本でスマホの写真に撮っておいた吉岡乾「現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。」のシナー語ギルギット方言の基本表現のページを確認しながらになった。

しかし、本にある「ジェーク・ハール・ハン?(ご機嫌いかがですか?)」という表現がいまいち通じない。お兄ちゃんに

「シナー語で『ご機嫌いかがですか(アープ・カー・ハール・キャー・ヘー)』は『ジェーク・ハール・ハン』か?」

と聞くと、

「『ジェーク・ハール・ヘン』だ」

とのことだった。「現地嫌いな〜」にると、シナー語は方言差が比較的大きいらしいので、ギルギット方言の「ハン」がチラス方言では「ヘン」になるのかな、と思った。
なお、私の「ジェーク・ハール・ハン」が通じなかったのは、多分「ジェーク・ハール」の発音が悪かったからだと思う。

「現地嫌いな〜」によると、「私は元気だ」は男性の場合は「サム・ハノス」、女性の場合は「サム・ハニス」となる。これらはすんなりと通じた。

車内では音楽で歌が流れていた。お兄ちゃんに何語の歌か聞くと、シナー語の歌とのことだった(私が聞いた時にはシナー語の歌だったと思われるが、歌の中にはウルドゥー語のものも含まれているような気がした)。

お兄ちゃんに、私の音楽も聞かせて欲しいと言われた。しかし、私のスマホには日本の音楽は入っていない。タジキスタン側パミールのシュグニー語の歌がメインである(他にペルシア語の歌がいくらか入っている)。
お兄ちゃんに「日本のじゃなくてタジキスタンのだけど」と言ってスマホをBT接続し、主にシュグニー語の歌を流した。
パキスタンでシナー語話者と一緒にタジキスタン出身歌手のシュグニー語の歌を聴く機会があるとは思っていなかった。なかなか貴重な機会だったかもしれない。

「ギルギット人」と「我々」

お昼過ぎ頃に道路脇の小さな店に立ち寄り、お菓子と飲み物を買った。

スマホはSIMの購入から3時間が経った12時を過ぎ、13時になってもつながらない。運転手の兄ちゃんにネットを借り、ギルギットのSさんに連絡をした。
Sさんは運転手に電話を替わってほしいと言った。運転手の兄ちゃんは「相手は誰だ、ギルギット人か?」と聞いた。私は「そうだ、ギルギット人だ」と言って電話を替わった。

運転手の兄ちゃんは、電話を替わった直後は少しだけ戸惑っているように見えた。
私は、Sさんがギルギット・バルティスタン出身でギルギット在住なので「ギルギット人」と言ったが、そもそも「ギルギット人」とは具体的には何を意味しているんだろうか?

  1. ギルギット・バルティスタン地方の出身者。

  2. ギルギット地方(バルティスタン地方ではない)の出身者。

  3. 「ギルギット語」の別名を持つシナー語の母語話者(民族としては「シン人」)。

とりあえず以上の3つが可能性として思いつく。
Sさんは現在はギルギット市在住だが、出身はヤスィン谷で母語はブルシャスキー語(民族としてはブルショー人)であり、上記の1、2には当てはまるが3には当てはまらない。ひょっとしたら運転手の兄ちゃんは最初は3だと思ったのかもしれないが、そもそも運転手の兄ちゃんが戸惑ったように見えたの自体が自分の思い違いかもしれない。
実際のところどうなのかは、民族関係のことを聞くのはどうも躊躇してしまい、自分の中で未だ謎のままである。

Sさんは運転手の兄ちゃんとしばらく話し、それから私に電話を替わった。Sさんは「彼は我々の側だ。彼を信頼していい。」と言った。

Sさんから運転手の兄ちゃんについてお墨付き(?)をもらい、安心感がより増した。
しかし、「我々」とは具体的には何を指すのだろうか? ギルギット・バルティスタン出身者という意味だろうか、あるいはSさんと同じイスマーイール派という意味だろうか?(シン人の一部はイスマーイール派だが、私は自分から宗教宗派について聞くのは躊躇してしまい、運転手の兄ちゃんの宗派については不明である。)
この「我々」についても、どうも訊きにくい気がして未だ自分の中で謎のままである。

山の中へ

周囲はやがて山がちになっていった。目的地のギルギットの風景は昨年行ったタジキスタンのパミールに近いというが、このあたりの風景は日本により近い気がする。

時刻は14時前頃。日本に比較的近い風景?

しばらく進むと、周囲はさらに山がちになり、日本の山深い場所のような雰囲気になってきた。私が行ったことのある場所では、徳島県の祖谷渓が比較的近いだろうか? 山の比較的高い場所まで家があるのも祖谷渓を思わせた。
違いと言えば、集落を近くで見ると建物等の雰囲気が日本とは全然違っていることと、日本の山岳地帯よりも明らかに多くの人が住んでいると感じられることだろうか。

14時半頃。山のかなり上のほうまで建物がある。
同上。道路から比較的近い位置の集落。

小さな集落の食堂

15時前に、車は小さな集落で停車した。道路の両側に立ち並ぶ店はかなり年季が入っており、かつ人々で溢れている。その人々(ほぼ男性)は皆、イスラマバードとは違う雰囲気の伝統的な衣装を着ており、映像等で見たことのあるアフガニスタンの人々とそっくりな気がした。日本とは全く違う集落の雰囲気は、どこか映画のセットのようにさえ感じられた。

この集落の人々が何語を話す何人なのかはわからなかったが、このあたりは行政区画上はカイバル・パクトゥンクワ州のはずである。ひょっとすると同州の主要民族でアフガニスタンの最大民族でもあるパシュトゥーン人なのかもしれない。
運転手の兄ちゃんに聞けば教えてもらえたかもしれないが、例によって民族関係のことは聞くのを躊躇してしまった。パシュトゥーン人だと確認できたらパシュトー語で「ツェンゲイェ?(お元気ですか?)」なり「マナナ(ありがとう)」なりを使えたかもしれない。

集落では一件の食堂に入った。年季の入った薄暗い店内の、通路の両側の桟敷上のところに伝統衣装に身を包んだ男たちが座っている様子は、やはり中世か近世かを舞台にした映画のセットのように感じられた。
いったん席に着いたが、トイレに行きたかったので店員さんにトイレに行きたいと言うと、店の奥に案内された。店の奥は川に面した窓があって明るく、トイレから通路を挟んで反対側は帳的なもので仕切られた桟敷状の場所になっていた。後で気付いたが、これは女性を連れた家族連れ向けのスペースのようだった。

私と運転手のお兄ちゃんの座った席の近くには、蝿もそれなりの数がいたので、食べ物にたかられないようにしなければならない。
食事が出てきて食べようとすると、不意に店内の電気が消えた。停電のようだ。我々はスマホのライトで明かりを取りつつ食事を始めた。
停電はこのまま続くのかなと思ったが、しばらくすると電気は復旧した。

食堂の食事。停電中で、明かりは運転手の兄ちゃんのスマホライト。値段は当時のメモによると420ルピーだった模様。

食事をしていると、店の奥から全身をブルカに身を包んだ女性(と思しき人)が何人かの人と一緒に出てきた。アフガニスタンの映像で見たことのあるブルカとそっくりの形だったが、色はあちらが水色系であるのに対し、こちらは褐色系だった。ブルカはアフガニスタンの水色系のものしか知らなかったが、地域によって色にも違いがあるようだ。

食事をとった食堂の集落(食堂はこの写真の向きとは反対側)。写真だといまいち雰囲気が伝わらない気がする。

さらに山の中へ

道を進むと、周囲はさらに山深くなっていった。道がかなり高い場所を走り、眼下のかなり低い位置に集落を望む場所もある。道は舗装されているが、ガードレールは低かったり無かったりする。落ちたらまず助からないだろう。

道路脇にはナスタアリークで「アーヒスター(ゆっくり)」と書かれている標識をよく見かけた(ペルシア語からの借用語である)。綴りは「آہستہ」と「آھستہ」の二通りがあった。ウルドゥー語では「ھ」は子音の後につけて有気音を表す文字のはずなので、教科書的には「آہستہ」が正しいのではないかと思うが、紛らわしくなければ「آھستہ」 でも良いということだろうか?

時刻は16時頃。ここでは道はかなり高い場所を走り、集落は左下のかなり低い位置に見えた。

途中には検問もあった。検問の兵士氏にパスポートとビザ(入国時にスタンプを押されたもの)を渡すと、パスポートをチェックしたり、ビザの写真を撮ったりといろいろ作業をしていた。兵士氏は最初、イランビザの貼られているページを旅券情報ページと勘違いして見ていたようだったが、すぐに間違いに気付いたようで、ページをめくってロシアビザの貼られているページを見つけると、これで良しといった感じに車を離れてパスポートの写真を撮った(そこも違うページだよ……)。

検問にはそれなりに時間がかかり、運転手の兄ちゃんは検問の兵士氏にどうも不満なようだった。

検問はその後もあったが、念のため日本でプリントしておいたビザのコピー(入国時のスタンプ無し)を渡すとスムーズに通過できた。イスラマバードでは特にコピーする機会は無かったので(探せばあったかもしれないが、自分からは言い出せなかった可能性が高い)、日本でコピーを用意しておいて良かったと思った。

17時前。道の脇に小さな滝があった。

道をさらに進むと、周囲の山々の雰囲気からは次第に日本っぽさがなくなり、その一方でタジキスタン側パミールっぽさが増してきた。道路も次第にパミールハイウェイっぽくなってきている気がする(全体的にはパミールハイウェイより整備されている雰囲気だが、道路脇の落石はパミールハイウェイより多い気がした。パミールハイウェイの場合は落石があっても道路脇に馴染んでいて目立たないということもあるかもしれないが……)。

途中、大きめの町を通過した。町を歩く人々(ほぼ男性)は、いろいろなタイプの帽子をかぶっていた。パミール帽と若干雰囲気の似ている円筒形系の帽子もあったと思う。私がパミール帽をかぶって歩いていても、現地人ではない旅行者が見たら違和感なく現地に溶け込んで見えるのではないか、という気もした(現地の人が見たらすぐに余所者だと気付くだろうが)。

18時前。かなりパミールっぽくなってきた。

日の暮れる頃には、周囲はさらに山深くなり、道もしばしば砂利道を低速で走る区間が出てきた。ただし、本当に徐行しないといけない区間はかなり限られていたと思う。

19時前。かなり暗くなってきた。このあたりは道が悪く徐行する区間もあったと思う。

チラス

車は、運転手の兄ちゃんの出身地であるチラスに近づいていた。運転手の兄ちゃんは「今日はチラスで泊まる」と言っていたが、Sさんから運転手の兄ちゃんに電話があり、私に替わるとSさんは「今晩ギルギットに着いたら連絡してくれ」と言った。どうやらSさんが運転手の兄ちゃんにギルギットまで私を連れて来るよう交渉したようである。

チラスの町の入口は、ギルギット方面へのメインの道から分岐したところにあり、町の入口のゲートと思しきものが電飾されていた。

「ここがチラスだ」

ゲートを横に見送りながら、運転手の兄ちゃんは少し誇らしげに言った。

22時過ぎ頃、チラスを少し過ぎたところにある食堂で夕食を摂った。

チラスから先は、運転手の兄ちゃんは車のスピードを上げ、時速100km以上を出していた。道路の状態もチラス〜ギルギット間は良好な区間が多かった。

ギルギット到着

午前1時頃、車はギルギット市に到着した。運転手の兄ちゃんとSさんから指示のあった場所を探して車をゆっくり走らせていると、Sさんが知人のAさんと共に出迎えてくれた。

Aさんとはまた後日ということで別れ、この日はSさんの家に泊めさせてもらうことになった。
Sさんの家に着くと、Sさんのおじさんを紹介してもらった(この家は厳密にはSさんのおじさんの家だった)。家の中には、アーガー・ハーン四世殿下の肖像写真や、家の子供が描いたと思われる殿下の絵もあった。
紅茶(私の希望で塩紅茶)をいただいたり、Sさん、おじさんと少し話をしたりして、この日は就寝となった。

Sさん宅にて。後ろのベッドに寝かせてもらった。

(続く)

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