ぶどうを醸し、豚を屠るーポルトガルー

ポルトガルの田舎の村に滞在したことがある。国の北部の山あいに開けたVilla Realの町から車で15分ほど、人口1500人足らずの集落。季節は1月の初めごろだった。この村は、同国北部を横断するRio Douroドウロ河のちょうど真ん中あたり、Reguaレグアからも車で30分ほどの場所にある。

ドウロ河は、彼の国のワイン産業を語る上で欠かせない。河口は、古くから港町として栄えたポルトガル第2の都市ポルト。18世紀から広まった世界に名高いポルト酒は、この地で熟成され、船でイギリスをはじめとする世界各地へ運ばれていった。原料のぶどうとワインは、この河をさかのぼった山間部流域Alto Douroアルト・ドウロ地域で栽培、醸造されている。それより下流域は、Vinho Verde ヴィーニョ・ヴェルデ(緑のワイン)と呼ばれる爽やかな白ワインの産地となる。

アルト・ドウロのレグアやPinhaoピニャウン周辺では河の両岸の急な斜面が段々畑になっていて、その山のさらに向こうの丘まで、ぶどう畑がどこまでも続く。さらに上流へさかのぼると、深い山のところどころの斜面が切り開かれてぶどうが植えられている。この辺りはポルト酒の原料ではなく、高品質な赤ワインの原料としてぶどうが育てられ、近年は人気が高まって畑の面積も広がっているのだという。河はポルトガル-スペイン国境として100キロほど北上し、スペインに入る。スペインではel Dueroドゥエロ河と名を変えて、Toroトロ、Ruedaルエダ、Ribera del Dueroリベラ・デル・ドゥエロといった名醸地を経て水源のSoriaソリアに至る。

ドウロ河流域でのワイン造りの歴史は深く、考古学の調査で3世紀ごろには醸造が行われていたことが分かっている。ぶどうの種子は、さらに古い地層からも発見されている。アルト・ドウロはユネスコの世界文化遺産にも選ばれていて、古くから人々はぶどうとともに暮らし続けてきた。ドウロでは伝統的に、地域に土着の品種を複数混ぜて醸造する。発酵にはlagarラガールという四角い浅い槽を使い(ちょうど銭湯の湯舟のような感じ)、4、5人で肩を組んでぶどうを踏んでいく。ちなみに、ポルトガルは一人当たりのワイン消費量が世界一だ(2019、OIV調べ)。

滞在先の村の話に戻ろう。そこは山里の集落といったのどかな風情で、家々の敷地は広く、ぶどうや野菜の畑が混在している。鶏を放し飼いにしているところも多い。小さな商店や食堂はあるが、商店街というほどのエリアはない。ヴィラ・レアルの町が近いから、買い物が必要な時は車で出かけるそうだ。

見たところ、大きな産業はない。かといって有名な観光地でもない。人々はどうやって生計を立ててきたのか尋ねえたところ、意外な答えが返ってきた。ヨーロッパの他の国に出稼ぎに行っていたのだという。滞在先のお父さんも、フランスでパン作りの仕事に従事したあと、スイスで道路工事の作業員をしていたそうだ。親戚や近所の人も、働き盛りの男性の多くは物価の高い他国へ出て、村に帰ってくるのは年に1,2回。お父さんは30年以上その暮らしを続け、妻と3人の子供を養った(引退後は家を改修し、システムキッチンを取り付けた)。大学に行くことができた息子たちは、プログラマーや医療関係の仕事に就いて近くの町に住んでいるという。近年では若い世代が出稼ぎに出ることは減ってきたようだ。

ある朝、朝食をとっていると、親戚の家を訪ねるよう勧められた。お父さんの姉が村の外れに住んでいて、一人で畑を耕し、家畜を飼って暮らしている。穏やかな冬晴れの今日、皆で集まって豚を屠殺するのだという。

僕はあまりおすすめしないけど、興味があるなら行こうか。とその家の末の息子が連れて行ってくれることになった。ただし命を落とすその瞬間は見るに堪えないというので(子供のころのトラウマなのだそうだ)、少し遅れて向かうことにする。

雨上がりで、午前中の柔らかい光がぶどうの枝を伝うしずくを揺らす。わずかに湿った地面から、土のにおいが立ち上ってくるような暖かい日だった。木とワイヤーでできた簡単な門をくぐると右に家屋、左に木造の倉庫があって、その先の庭に5,6人の大人が集まり皆でホカホカと湯気が上がる豚の身体を撫でていた。台に乗せられた豚は絶命していて、あたりには大仕事を終えた後の安堵感のようなものが漂っていた。お父さんが私に手を振ってくれた。親戚の皆さんは、この場にそぐわない東洋人の登場にやや困惑しつつ、笑顔を向けてくれた。

エプロンをつけた一人の女性が、土間からお湯の入った大きな鍋を持ってきた。お湯を豚に掛けつつ、鍋の中から灰色がかった塊を取り出す。ふるふると柔らかいその塊を、大人たちは手で分け合って食べはじめた。抜いたばかりの豚の血を茹でたものだという。遠巻きに見ていた私たちに、あなたも食べる?と(たぶん。ポルトガル語なのでわからない)聞かれたけれど、ガイドを買って出てくれた青年が間髪入れずに断っていた。豚を屠ったこの瞬間にしか食べることのできない珍味で、栄養に富んでいるという。少し残念だけれど、安堵の気持ちもある。この神聖な労働に参加した人だけに、そのエネルギーを口にする権利があるようにも感じる。

お湯をかけて撫でているのは、豚の毛をそいできれいにするためだそうだ。このあと後ろ足をロープで縛って吊るし、内臓を取り出す。翌日、肉を切り分けて、一部をソーセージ(馬蹄型の腸詰Alheiraアリェイラが美味しかった)やハムに加工する。かつては肉のほとんどを塩漬けにして一年かけて食べたものだが、今は冷凍庫があるからそのまま保存できる。2頭分の肉はみんなで分けてしまうと1年分にならないが、足りなくなったらスーパーマーケットに買いに行けば手に入る。この家では、毎年春に2頭の子豚を買ってきて、冬に大きく育ったところを解体していただいているという。

見学のお礼を伝え、その家を後にした。多少便利にはなったけれど、ポルトガルは30年前のヨーロッパで、この村の人はそのさらに30年前の暮らしを続けているんだよ、と青年は言う。ここで生まれ育った彼にとって、それは少し恥ずかしくて、少し誇らしいことのようだった。

風光明媚なドウロ側沿いをドライブしていると、また冷たい雨が降ってきた。少し時間が早いけど、Tascaタシュカに行ってみようか、となった。タシュカはおそらく英語圏でいうTabernと同義で、地元の人が集まる安い酒場のことをいう。滞在先の村よりもさらに閑散とした小さな集落の、一軒の屋敷の前に車を止める。民家のように見えたけれど、重い木の扉を開けると、果たして中は食堂だった。夕暮れ時、室内はまだ暗くひんやりとしていて、明らかに開店前である。

声をかけると、奥から大柄なおかみさんが出てきてくれた。今日はお客も多くないだろうから、ゆっくり準備していたのよ、温かい食事は出せないけれど、簡単なつまみでいいかしら?という(私はかいつまんで訳してもらってから状況を理解する)。寒かったでしょう、暖炉に火を入れるから近くに座りなさい、というところは、手ぶりも交えて伝えてくれたのでなんとなく分かった。人懐こいおかみさんの親切に感謝しつつ、暖炉の前に腰掛ける。オブリガーダ。ありがとう。

暖炉の火で身体が暖まってきたころ、おかみさんがラベルのない裸のボトルに入った赤ワインと、ざっくばらんにスライスされた生ハム、山盛りのオリーブを持ってきてくれた。落としても割れないような、ぽってりしたグラスにワインを注ぐ。

ポルトガルでは赤ワインのことをVinho Tintoヴィーニョ・ティントという(ティントは色を付ける、染める、といったニュアンスの言葉)。特に断りなく出てきたところを見ると、この辺りではワインはTintoが当たり前のようだ。ワインは色が濃く、かといってタンニンが強すぎることはなく、プルーンやブラックベリーのジャムのような熟した果実味があってとてもおいしかった。名もなきワインは、この家か近所の人が作っているホームメイドらしい。品種が気になってを訪ねようと思ったが、たぶんいろいろ混ざっているし分からないと思うよ、と言われる。確かに大した問題ではないと思いなおす。

オリーブも、浅漬かりでコクがあって美味。この辺りはオリーブの産地でもあるから、安くて新鮮なオリーブがいくらでも手に入る。自家消費なら輸送のために保存性を高める必要もないから、使う塩も少なくて済む。そして生ハム。やはりこの家で塩漬けにして熟成させたというハムは、滋味深くとびきり美味しい。

100年前も、今も、彼らは豚を育て、屠り、部位ごとに丁寧に加工して、時には2年、3年と熟成させてから大切にいただく。一方で、ぶどうを育て、秋には収穫して醸し、1年分のワインを造っておいて、毎日の食事とともに楽しむ。繰り返されてきた食の営みは尊くて、でも彼らにとっては当たり前にそこにあるものだった。暖炉の炎に温められながら、脈々と文化を受け継いできた人々を思った。

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