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喫茶銭湯メモワール

古事記によると、四国というのは本州よりも先に誕生したとされている。
神話というのは"信じる"とか"信じない"とかではなくて、遠い昔から物語がきちんと受け継がれてきたという真実を、誇らしく感じるためにあるのだと思う。

「伊予の国を愛比売エヒメといひ」
明治に入って、日本で唯一古事記から名前をもらったのが愛媛県である。

愛媛県は松山というところで、私は大学の4年間を過ごした。
心地よい風のふく街だった。
部活の先輩の夏目漱石さんも、同じ学科の正岡子規も、ほのかにみかんの香りがするこの街が好きだったに違いない。

喫茶マスコット

思い出に残っているものといえば、お気に入りの喫茶店に溶けていった時間と、それと引き換えに摂取した大量のカフェインくらいである。
漱石さんと正岡と私は、しわくちゃな笑顔の可愛らしいマスターに4杯のコーヒーを注文する。
「漱石さん、小説を書いたんですって?主人公が猫なんですねえ。名前もまだ無いとか。へんてこりんだ。正岡もそう思うだろう?」
「夏目さん、人の心を動かすのは”心地の良いリズム”です。例えば、柿食えば 鐘が鳴るなり、、、とか、そういった類の」
漱石さんにも正岡にも、文学の才能は感じられない。

私はというと、カウンターに座る高校生を眺めながら、素敵な言葉が浮かんでくるのを辛抱強く待っていた。彼は謎めいた紫色のジュースをちゅうちゅう吸っている。
「才能というのは向こうからやってくるのだよ」

研究室の空海教授は熱いのが苦手で、いつもコーヒーがぬるくなるころに顔を見せる。去年まで遣唐使に紛れ込んで海の向こうにいた。なにやら密教とやらを日本に持って帰ってきたらしい。
世間には天才ともてはやされているが、私に言わせればただの変態おじさんである。

シネマルナティックと社日

コーヒーを飲み終わったら、睡魔に襲われてテーブルに突っ伏してしまう前に店を出る。

「南銀天街は古くて新しい」
ビルの2階の映画館で、どこかの誰かが作った自主映画を2本観る。映画を観終わったら、横断歩道を渡って古本屋さんに入った。
「むかし通っていた塾の匂いがするから好きなんだよ」

坊ちゃん3 清水湯

空海教授が大学に戻ると、私たちは居酒屋に向かう。ハマちゃんさんは厨房に立つとキリッとした料理人に様変わりする。いつもはマスコットの天井をぐるぐる飛び回っているのに。
周りのお客さんとワアワア飲んで、ニラレバとずりポンを掻き込んだら、お酒で満たされた体を洗いに銭湯へ。

「あら、よくいらっしゃいました」
番台に座るお母さんは手のひらに炎を焚きつけ、今日もお風呂を沸かしてくれる。
「小説のアイデアも、この泡のように湧き出てくれるといいんだが」
「漱石さん、次は神話を書いてみては?」
「神話など、私は信じていない」
「信じるとか信じないとかではないんですよ。面白ければそれでよいのです」
正岡がサウナに入るのを合図に私たちは解散し、それぞれのタイミングで家路につく。

清水湯はいつも最高に良い湯だった。
部活のことも研究のことも、彼女のことも将来のことも、何かあれば清水湯に浸かって考えた。
真ん中の湯船の左側に座って、柱と向かい合い、両側の窓から夜空を眺める。

近所のおじいちゃんの朝は早い。早朝のアルバイトに向かう私を見つけると、新聞を広げたまま「お早いですねぇ。お気をつけて」とだけ言ってくれる。私はまだ夢の中にいるので、それが「君はいつもかっこいいねぇ」に聞こえる。
帰ってきたら、最近は寒いとか、昨日のデイサービスで俳句を詠んだのが楽しかったとか、色々とお話をする。
「俳句とは何ですか?」
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

彼も清水湯の常連らしい。4年間も同じ銭湯に通っていたんだから、一度くらい裸の付き合いをしてみてもよかったのに。

大河賀釣り公園

きれいな夕焼けを見たい日と、物思いに耽りたい日と、なんとなく自転車を漕ぎたい日は、少し離れた海沿いの公園に行く。読み方が分からなくてずっと「たいがが」と読んでいたが、本当は何と読むんだろう。
ここの夕焼けは彼らには勿体ないほど美しいので、秘密にしている。

高浜線

漱石さんと正岡と私は、たまにヒョイっと伊予鉄に乗る。座るのは高浜行きなら進行方向に向かって右側で、松山市行きなら向かって左側に限る。
私たちはそこでも作品を考えるフリをした。
「恋というものを書いてみたいね。恋人とは仲良くやっているかい?」
「芋けんぴを食べながら寝てばかりいるから、一人で遊びに出かけたら、いつの間にか高知の方に消えて行ってしまいました」
「それは君が悪いよ。今度一緒にベースボールでもして、新たな出会いを探しに行こう。」
「ベースボールという名前についてですが、私の幼名の"のぼる"にちなんで"野・ぼーる"とでも呼びましょうよ」

恋は難しい。ベースボールやアメリカンフットボールはあんなにも簡単なのに。

列車が梅津寺駅に滑り込むと、車窓の景色が突然、ふわっと浮いた。
「おや、私が知らぬ間にこんなにも科学が発達していたのかい?」
列車は意志を持ったかのように空を駆け昇り、石鎚山の方角へと向かった。
「この中にお医者様はいらっしゃいませんか?」
運転士さんが叫びながら車内を走り回っている。列車はみるみるうちにスピードを上げ、もう山頂が見えてきた。西日本最高峰の山はそれでも美しい。
どうやらお医者様は乗っていないようだ。仮にお医者様がいたとして、この空飛ぶ暴走列車を止められるのだろうか。
「こうなったら仕方がない!私たち3人でこの列車を止めましょう!」
「そうだな」
「いくぞ!さん、にぃ、いち、うぉりゃっ!!」

喫茶マスコット ふたたび

ふと目が覚めると、私はマスコットのテーブルに突っ伏していた。
マスターの娘さんのリナさんと大学生のミモリちゃんが、いつものように猫のマンガを読んでクスクス笑っている。
「みかん色の夢を見ていました。漱石さんと正岡はもう帰りましたか?」
「そんな明治の文豪と俳人みたいな名前のお友達、あなたにはいないでしょう?」
訳が分からずキョロキョロしていると、電話が鳴った。

「あぁ、私だ、空海だが。夜も遅いけど今から研究室に来られるかい?秋山兄弟と、ロシアのバルチック艦隊を破る作戦でも立てようと思ってね。その後は、そうだな、また古事記の議論でもしようじゃないか」

私は「また今度」と言って、愛の詰まった扉をギィィと開けた。
ほのかにみかんの香りが混じった、心地よい風が吹いていた。


おわりに

この物語は空想です。
でも正岡はユウくんとかオガワかもしれないし、漱石さんはカマクラさんとかニイホかもしれません。
空海教授がイ先生だなんてことは流石にないけど、マツムラ先生の可能性は十分にあり得ます。
リナさんは、リナさんです。

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