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有権者は、みていてくれた

本稿は、下記のエントリの続編です!未読の方は、ぜひご一読ください。


日本政府の外交安保をリードする存在に!

高校生の最後の年、昭和54年(1979年)。激動の国際社会にあって、党内抗争に明け暮れる日本の政治家をみて、愕然としました。国際政治をリードする政治家に、自分がならなければいけない、と決心したのです。

あれから、24年。私はついに国政の舞台に立つこととなりました。そして、米国での7年に及ぶ武者修行を経て、外交安全保障(以下、外交安保)政策のプロフェッショナルとして、先輩議員からも一目置かれる存在になっていました。新人ながら、党内の外交安保政策をリードします。

衆議院議員として当選して間もなく、民主党「次の内閣」でネクスト防衛庁副長官に抜擢され、その後ネクスト防衛庁長官へ。衆議院でも、安全保障委員会の筆頭理事に就任。国会の最前線で小泉政権に政策論争を挑みました。

そして、平成21年(2009年)9月。47才の時です。悲願の政権交代が実現します。いよいよ与党の一員として、党ではなく、我が国の政権中枢で外交安保政策の舵取りをする時がきたのです。

鳩山内閣では防衛大臣政務官に就任。また、続く野田内閣では、外交安保を担当する総理大臣補佐官を務めました。

総理補佐官の職場は、首相官邸です。初出勤の際、朝日に照らされ輝きを放つ首相官邸の門をくぐる時の感慨は忘れられません。約30年前に外交・安全保障を志して以来、ついに、時の総理大臣にアドバイスする立場に就いたのです。そして、日本でも二大政党制が実現しかかっていることを実感し、全身が泡立つような思いに包まれました。

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とはいっても、仕事はかつてなくハードでした。なにせ、国益をかけた真剣勝負が日常です。首脳会談にも陪席し、一国の指導者とも渡り合いました。この時の経験が、私を政治家として更に成長させてくれました。

第三次改造内閣では、ついに防衛副大臣に就任。当時の防衛大臣は、長年の恩師である森本敏先生でした。やりがいは、これ以上ないほどです。我が国にとって積年の課題であった、日米防衛協力のガイドライン見直しに着手しました。


苦渋の決断、離党

しかしその後、民主党は選挙で大敗し、政権を再び自民党へ明け渡すことになります。なぜ、こんなことになってしまったのか。ここでは、語りません。が、しかし、筆舌に尽くし難い思いでした。

それでも、いつか必ず与党に返り咲き、政府の一員として日本の外交安保政策をリードしてみせる! その気概は、全く失っていませんでした。政権時代の経験を活かし、引き続き「外交・安全保障に与党も野党もなし、あるのは国益のみ」という信念のもと、建設的な政策提言に徹します。遠回りなようですが、これが、政権交代、 延いてはその後の政権運営に必要不可欠だと信じていたからです。

二大政党制を根付かせるためには、野党は単に政権を批判するだけでなく、責任感と現実感をもって「我々であればこうする」という将来像を示し続けなければなりません。野党であっても「責任政党」だということを忘れてはならないはずだからです。

しかしここで、所属する民進党(民主党から民進党に党名変更)の方針と、決定的に食い違ってしまいます。共産党との選挙共闘の方針が示されたのです。これは、民進党の、責任政党から「万年野党」への変化を意味していました(そして、誠に残念ながら、実際にそうなってしまいました)。

何がなんでも、とにかく政府を批判するのは、わかりやすくはありますし、ある一定の支持を獲得するには、間違いなく効果的でしょう。しかしそれでは、良識ある大多数の日本国民の支持を失うことになります。この路線なら、選挙にはある程度勝てるかもしれない。政治家の生存戦略としては、合理的かもしれない。でも、政権は取れないし、仮にとれても、運営はできません。

党がこのような状態に陥り、私自身は、政治家として如何にすべきか。悩みました。しかし、私の政治家としての原点に立ち返ってみると、答えは明白でした。

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私は、単に政治家でいたいわけではありません。国際政治をリードできる政治家になりたいのです。したがって、ここにいるわけには、いきませんでした。

平成29年(2017年)、55才で民進党を離党(後に除籍)しました。総理大臣の時に私を引き立ててくださった野田幹事長に離党届を渡した時には、切ない思いにさいなまれました。


起死回生の新党設立!しかし、惨敗!

私の長年の政治理念のひとつであった二大政党制は、ついに、挫折しました。心底、無念でした。

しかし、志は変わりません。再び政権の座につき、ますます混沌としつつあった国政政治の舵取りをせねばならないと思っていました。そこで、別のアプローチを思案します。二大政党制が無理なら、それに代わる健全でバランスの取れた政治を実現すればいいのではないか、と。そして行き着いた結論は、政治理念を共有できる仲間たちと、中規模の政党をつくること。政策ベースで、与党でも野党でも、柔軟に考え方の近い政党と協働する、つまり、連立組み換え方式でキャスティングボードを握り、自分たちの政策を実現していく集団です。

企てたならば、行動あるのみ。当時、「都民ファーストの会」で都議会を席巻していた小池百合子東京都知事と連携し、国政政党「希望の党」を結成します。当初は、有権者の皆さまやメディアの反応も悪くないと感じていました。そして、次の衆議院選挙は、もう目の前。これは、膠着した日本の政界に風穴を開けられるかもしれない……!

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ところが、そうは問屋が卸しませんでした。人生には、3つの坂があると言われています。上り坂、下り坂、そして、「まさか」です。まさかも、まさか。「ある時」を境に、希望の党の支持率は急落していきました。選挙の追い風どころか、大逆風です。しかし、体勢を立て直す間もなく、そのまま選挙に突入してしまいました。

選挙結果は、悲惨でした。希望の党から出馬した仲間の多くは、落選。もう、政権交代どころではありません。

ほんの数年前まで、政権の中枢で活躍していたのに、突然の下野。若かりし頃から掲げてきた二大政党制の政治理念は潰え、離党。そして今回、乾坤一擲で臨んだ新党は、設立早々瓦解寸前。多くの仲間、そして有権者の期待を裏切る結果となってしまいました。

これまでの人生でも試練はたくさんありましたが、この時は、本当にきつかったです。


有権者は、みていてくれた

でも、そんな私の背中を押してくださったのは、地元の有権者の皆様でした。

希望の党にとって、今回の衆議院選挙は大逆風。非難と批判の嵐でした。実際に私も、選挙が始まった時、大手メディアの当落予想では、落選でした。

しかし、大方の予想を裏切り、私は小選挙区で当選します。東京に25ある小選挙区のうち、希望の党から立候補した議員が勝ったのは、この選挙区だけでした。

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挙期間中、多くのお叱りも頂きましたが、それと同じくらい「がんばれ」「負けるな」と、励ましの言葉もいただきました。この選挙区で初めて立候補をしてから、17年。どんな状況にあろうと、野党の時も与党の時も、私は一貫して、有権者の皆様に自らの政治理念を訴え続けてきました。それを、本当に多くの方々が受け止めてくださっていたのだと思いました。

確かに私は、今回の企てには失敗しました。しかし、チャンスをいただいたのです。政治家として、このご期待に応えないわけにはいきません。

この翌年、希望の党は、あえなく解党します。そこから政界ではまた合流新党(今の立憲民主党)の話で賑わっていましたが、私は腹を括り、そこには参加せず、再び無所属に戻ります。

私を再び政界に押し上げてくださった有権者の皆様の期待に、応えないといけない。それは、万年野党の政治家でいることではないはずだ。私には、やるべきことがあるはずだ!!


下記のエントリに続きます!次が、最終回、そして、始まり!


【コラム】なぜ、希望の党は失敗したのか

世間では、希望の党が失敗した原因を「排除の論理」とする向きがあるようです。でも、それは本質からは外れていると考えています。なぜなら、政党を立ち上げる上で、政策理念の一致は当然のことだからです。

15人の同志で立ち上げて、そこから「改革保守」の流れを作っていこうと思っていましたが、その後民進党から大挙合流するということになりました。離合集散の進んだ民進党には政策理念が遠い方もいたことから政策面での誓約書を書いてもらうなど、見方によっては「上から目線」になってしまい、国民の皆さんからひんしゅくを買ってしまった、という側面は確かにあります。

本来、政治は政策のみで勝負していくのが本筋ですが、民主主義のしくみ上、数の論理やモメンタム(時の勢い)、メディアなどに翻弄される宿命も同時に持っています。

結局は、政策での仕切り板をうまく設定することができず、当初の予定のように政策基調を同じくする分かりやすいグループを作るのに失敗した、というのが新党失敗の本質だと考えています。