伴奏者のいた場所
舞台上へと続くドアが、音もなく開かれる。
相方が私の方を向いて、母を求めるような目で必死に笑顔を作る。
微笑み返すと同時に、ステージマネージャーから声がかかる。
toi toi toi,
その声に軽く目で会釈をして、木目が飴色になった床板に、一歩目から迷いなく足を踏み出す。
最初の数歩は下を向いて。
それから、少し顔を上げて拍手の音を見る。
譜面台に楽譜を置いて、目の前に立つヴァイオリニストの肩越しに光る会場のライティングに目を細める。
ゆっくりと頭を下げて腰を曲げると、震える膝を感じる。
今日も、私は震えている。
楽器の前に腰を下ろして、楽譜を音を立てないように開く。
いつもならば指に馴染む紙も、人前に出れば指先を傷つけるようにすべらかで鋭利だ。
楽譜立てをそっと人差し指で押して、奥に移動させると、長い長い弦のはじまりが見える。
右足と左足で、それぞれペダルを踏んで、"かかり”を確認する。
ヴァイオリニストの方へ顔を向けて、鍵盤を押す。
その音に合わせて、弦の緩みを締め、弓を張る彼女。
その間に、私はそっと両手を組む。
首を傾けて、楽器に刻まれた文字の「A」の三角の隅を、祈るような気持ちで見つめる。
そして目を閉じて、自分の指が冷えていることを自覚する。
調弦の音がやみ、右に顔を向ければ、こちらを向いて目を閉じるヴァイオリニストがいる。
同じ恐怖を、しかし、決して人は背負ってくれない怖さを、お互いに背負っているのだとわかる。
音のはじまりに期待する観衆の放つ高揚感に混ざって、すうと通りの良い鼻息も聞こえてくる。
ヴァイオリニストが目を開け、身体を舞台に開く。
鍵盤に指を乗せ、全身を一音目へ集中させる。
鋭く吸う息の音が、耳を突く。
そこが、私のいた場所。