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僕には芸術がわからない。【短編小説】

晴れ渡る水色の空の下、彼女は、雨に打たれながら踊っていた。


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頻繁に天気雨が降る我が国は、「水色の国」と呼ばれている。「水色」が青空を指しているのか、雨を指しているのかは不明だ。

春から夏の温暖な季節には、一日に幾度も天気雨が降る。サッと5分ほどであがる小雨の時もあれば、ザーッと激しい雨が1時間続く時もある。逆に、数分強い雨がザッと降ることもあるし、1時間以上弱い雨がパラパラと降り続くこともある。雲ひとつない水色の空から雨が落ちてくる景色は、何度見ても不思議だ。

我が国に降る天気雨のメカニズムは解明されていないことばかりで、いつ・どこで・どれくらいの量が降るか全く予測できない。わかっていることと言えば、秋になって空気が冷えると天気雨の回数が減り、冬になれば快晴の日の方が多いということだけだ。予兆もなく突発的に降り出す天気雨に、我々国民は振り回され続けている。

――僕たち「水色の国」の気象科学者は、少しでもこの暮らしを良くしようと、日夜天気雨の研究に励んでいた。


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天気雨の回数が増えてきた初夏の日曜日。市街地へ食材の買い出しに出かけると、やはり天気雨が降ってきた。左手首の腕時計をチェック。午後3時……15分。家に帰ったら、降り出した時刻をパソコンに記録しなければ。

食材を詰め込んだ麻のバッグの中から、いそいそと折りたたみ傘を取り出す。いつ天気雨が降るかわからない「水色の国」の民は、マイ折りたたみ傘を常備している。カチカチと柄を伸ばし、持ち手についているボタンをプッシュ。バサっと気持ちの良い音を立てて骨組みが開いた。ポリエステル100%の水色の生地。空と同じ色をしているこの傘をとても気に入っていた。

さあ、家に帰ろう。身体をすっぽりと傘に収めながら歩く。傘にあたる雨音が激しい。こりゃ「神様の大泣き」だな。足が速くなる。市街地の中央にある噴水広場を突っ切って、細い路地に入れば僕の住むアパートメントハウスはすぐそこだ。

――……と、だだっ広い噴水広場に足を踏み入れた時だった。国のシンボルとされる全長10メートルの巨大な三段噴水。てっぺんには水瓶を持った天女のオブジェが飾られている。その噴水の前で、20代ほどの若い女性が一人踊っていた

音楽はない。雨音に合わせて踊っているのか? 大きく腕を伸ばしたかと思えば縮め、顔のそばでぱたぱたと指先を動かす。しゃがんだかと思えばダイナミックな動きですっくと立ち、大きく脚を動かしてくるくると回る。しなやかな動きをしたかと思えば、急にキレのある動きに変化する。腰まで届く漆黒の髪が、身体を追いかけるように動いていた。

家路を急いでいたはずの足は止まっていた。この雨のせいか、観客は僕一人だった。雨が太陽にキラキラと反射して眩しい。彼女のダンスには、雨を弾き飛ばすような激しさがあり、力強さがあり、静けさがあった。

輝く雨が、彼女と大噴水と僕を包み込んでいた。


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彼女の左腕が、何かを掴もうとしなやかに空へ伸びる。指の先を見つめるその表情は穏やかな笑みを浮かべていた。ピタッと動きが止まる。そのまま、1、2、3、動かない。ダンスが終わったと判断したのだろうか、僕は無意識に拍手を送っていた。折りたたみ傘と食材を詰め込んだバッグがドサッと地面に落ちた。

知らない間に雨は上がっていた。ダンスを見始めてから10分は経っていただろうか。ああ、雨が止んだ時間も記録しなければならないのに、僕としたことが。すっかり見入ってしまっていた。

拍手が耳に届いたのか、彼女は姿勢を戻してこちらを見た。ばちっと目が合う。ええと、何か感想を伝えた方がいいのかも。ドキドキしながら「素晴らしかったよ!」と声をかけた。もっと、具体的にどこがどうすごいか伝えられたらいいのに、貧困な語彙に呆れる。そもそも、これまで芸術に触れてこなかった素人に「よかった」などと言われて、彼女はうれしいのだろうか。

心配をよそに、彼女はうれしそうにほほえむと、タタっと軽やかな足取りでこちらに近づいてきた。

「ありがとう! 見てくれたの?」
「うん。人の身体ってあんなに柔らかく動くんだね。ええと、なんて言うんだっけ、……コン……コンテンポラリーダンス……??」
「そう! コンテンポラリーダンス!」

びっしゃびしゃに濡れた彼女の黒髪。麻のような生地をしたベージュのワンピースも、ぐっしょりと雨を吸っていた。背もあまり僕と変わらない。170センチくらいだろうか。華奢に見えたけれど、ダンスに必要な筋肉がきちんとついているようだ。

彼女が僕の顔をのぞき込んだ。大きな黒い瞳がぐっと近づいてきて、反射的に身を後ろに引いてしまう。まじまじと見られるのが恥ずかしくて、目をそらしながら中指で丸メガネのブリッジをあげた。

「へえ、水色の国の住人は、瞳も水色なのね。くるくるした金髪……まるで天使みたい。きれいね」
「あ、ああ……、癖っ毛なんだ。君は? この土地の人じゃないようだけど」

彼女を一目見た瞬間、水色の国の人じゃないと思った。この国の人は、大体が金色の髪をして、水色の瞳を持っている。漆黒の髪と目は、異国の人の証だった。

「そうよ。私、世界中を旅してまわっている芸術家なの」
「芸術家?!」
「……ごめん、芸術家は言い過ぎたわ。旅芸人がいいとこね。ダンスで生計を立てているの」

芸術家だろうが旅芸人だろうがダンサーだろうが、「芸」で飯を食べていることには変わりない。バリバリの理系の僕にとっては想像もつかない世界だ。

――芸術家か、そうか。どうりで。内心、この雨の中でダンスをするなんてどんな神経をしているのだろうと思っていたのだけれど。そうか、芸術家か。それなら僕の理解の範疇を超えていてもしょうがない。なんせ、生まれて初めて芸術家に出会ったのだから。

「水色の国には一度来てみたいと思っていたの。びっくりした。こんなに良いお天気なのに、本当に雨が降るのね!」

どこか楽しげに話す彼女に、むっとしてしまった。楽しいなんてもんじゃないのだ、この国での暮らしは。いつ天気雨が降るかわからない生活は、我々国民にとって悩みの種だ。それに、何十年、何百年と研究してきたのに、一向に成果が出ない歴代の科学者たちの惨めな気持ちなんて、きっとわからないだろう。

「ねえ、お願いがあるんだけど」

不満げな僕をよそに、彼女は続けた。

「今日からしばらく、あなたの家に泊めてくれない?」


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噴水広場を抜けて石畳の階段を下り、細い小道に入る。住宅街を5分程歩いたところに、3階建ての草臥れたアパートメントハウスが現れた。2階のいちばん奥の部屋が僕の住処。2年前、大学院を卒業して国の科学者になった時に初めて借りた家だ。

「へーえ、なかなか良い部屋じゃない!」

部屋を見回すように、彼女はリビングでくるっと一回りした。玄関から入って右手に洗面所とトイレ、バスルーム、廊下の左手にはキッチン、そして8帖のリビングに、6帖の寝室。水色の壁が気に入って契約した、ごくごく一般的な1LDKだ。家電は白、家具は焦げ茶色で統一している。

キッチン横の冷蔵庫に、先ほど購入した一週間分の食料を詰め込む。作り置きして朝食やお昼のお弁当、晩ごはんにするのだ。ばふっと音がして、リビングを覗く。焦げ茶色の革張りのソファで彼女がだらけていた。

「ちょっと、びしょ濡れの服で座らないでよ。早くシャワーでも浴びてきたら。風邪引くよ、そのままじゃ」

「はーい!」

すっくと元気良くソファから立ち上がり、僕の後ろを通ってバスルームへ向かっていく。聞こえないように、小さく溜息を吐いた。

彼女の所持金は驚くほど少なかった。とてもじゃないけれどこの辺りで泊まれる宿などない。水色の国は、他国に比べると物価も高い。市街地にある宿は、官僚や他国の偉い人が使用する目的で建てられているし、まあまあ高額だ。

それに、路上で暮らせるほど治安が良いわけでもない。市街地の大通りは人の往来もあって安全だけれど、路地裏に入ると盗賊と出くわすこともあるという。異国の土地で雨風もしのげず、盗賊に怯えながら眠る彼女の姿を想像したら、いたたまれなくなってしまった。

国に雇われている気象科学者の暮らしは、それなりに安定している(成果が出なくて肩身の狭い思いをすることもあるが)。芸術家の暮らしは、想像よりはるかに大変らしい。


夕飯にドライカレーを作った。僕だけじゃない、彼女のぶんもだ。相当お腹を空かせていたのか、彼女はおいしそうにモリモリと食べた。いつも多めに作って、残りを翌日のお弁当にするのだけど。明日のお昼ご飯は、食堂の定食になりそうだ。

「あなた、一人で暮らしているの? ご両親は?」

山盛りによそってあげたドライカレーをきれいに平らげた後で、彼女は僕に質問を投げかけてきた。

「一人暮らしだよ。両親は外国で暮らしてる。父も気象科学者だったんだけど、定年で退職して母と海外に移住したんだ。水色の国での暮らしは何かと不便だから、海外移住する人がすごく多いんだよ」
「不便?」
「不便だろう? いつ雨が降るかわからないから洗濯物も外に干せないし。じめじめしているから、すぐにカビが生えるしね。ピクニックにバーベキュー、山登り、あとゴルフとか? 基本的に、屋外でやるレジャーは楽しめないよ。観光にも不向きな国だし」
「そう、実際に暮らしてみると不便さはあるのね」

暮らしの大変さを納得させられて、僕は少し満足した。

「でもね、世界では人気のある国なのよ」
「――え?」

ドライカレーを口に運ぶ手が止まる。彼女はテーブルに置いていた自身のスマートフォンを手に取り、「ほら」と見せてきた。液晶画面を覗く。旅行サイトだろうか? 彼女のスマホなのに、ぶんどってまじまじと記事を読んだ。

「美しい天気雨の降る秘境・水色の国」
水色の空から、太陽に照らされてキラキラと降ってくる雨粒は、まるで宝石のようだ。天気雨の降った後には七色の虹が見られることが一般的。高い建物が少ないため、市街地を覆うようにしてかかる虹の橋は、世界最大サイズに違いない。山岳地方の自然豊かな国であり、廃棄ガスや有害物質が少なく、空気も澄んでいる。冬は快晴が多く、天気雨や虹を見るなら春・夏シーズンがベスト。なお、頻繁に天気雨が降る謎については未だ解明されていない。

記事には、市街地に降る天気雨の写真や、三段噴水の真上に大きな虹がかかった写真が添えられていた。「ありきたりな風景」と思えるほど、僕にとって馴染みのある景色だった。異国の人は、これを「きれい」だと思うのか。

「見世物としては良い国なんだね。まあ、美しいだけでは、生きていけないのだけど」

大体、この記事には、暮らしを営む上での大変さがこれっぽちも書かれていないじゃないか。外出時は折りたたみ傘を常備しなくてはいけないとか、洗濯物を外に干してはいけないとか、子どもたちは禄に外遊びができないとか。それなのに、天気雨が降る謎は解明されていないとか、この国の科学者が無能だって余計なことは書いてある。腹立たしい。

スマホを突き返す。彼女は苦笑した。

「おいしかったわ。ありがとう。ごちそうさま」



食器洗いは彼女がやってくれて、その間にシャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かし、身なりを整えてリビングに戻る。あれ? 彼女の姿が見えない。どこに行ったのだろう。寝室をちらりと覗く。いた。僕のベッドで横になってスマホをいじっている!!

「ベッドで寝るつもり?! 居候の分際で?!」
「……あのねえ、私はダンサーなのよ。身体に何かあったら大変だと思わない?」

僕の驚きの声に、彼女が身を起こして呆れたように反論した。そんな屁理屈がまかり通るのか?! 家主は僕なのに!! ――抗議しようと思ったけれど、やめた。確かに彼女は身体が資本なのだ。一緒に暮らしている間は、家賃も光熱費も何もかも折半する約束だ。稼げなくなったら困る。

押し入れから、両親が泊まりにきた時に購入した布団を引っ張り出した。テーブルとソファーでぎゅうぎゅうのリビングにはスペースがないから、仕方なく寝室のベッドの下に敷く。押し入れに忍ばせていた除湿剤がちゃんと機能してくれていて、布団にはカビひとつ生えていなかった。得意げな気持ちになる。

部屋を真っ暗にして、僕たちは早々に就寝した。久しぶりの布団は、床の固さが身体に響く。すでにふかふかのベッドが恋しい。明日、マットレスでも買おうかな。でも、買って帰り道に雨が降ったらいやだな。宅配かな。でも平日は仕事だからなかなか受け取れないしな……

「私の生まれた街はね、」

頭の中で考え事を巡らせていたら、ベッドの上から声が降ってきた。ぽつり、ぽつりと彼女が話し始める。

「毎日雨は降らないし、化学も発達しているし便利な国よ……。だけどね、工場の汚染水が川に流れ出て、たくさんの人が病気になったことがあるの。大気も汚れているから、空はずっと濁っているし、国を出るまで青い空なんて見たことがなかった。雨も黒々としてとても汚いのよ……。植物だってすぐに枯れてしまう。……私もね、あなたの両親と同じような理由で国を出たの」

目を閉じているせいか、彼女の声が脳にダイレクトに届く。工場地帯にある薄汚い街、家の窓から汚染された空を見上げる寂しげな顔をした幼女。考えたくもないのに、彼女の故郷や幼い姿を想像してしまった。

「水色の国に足を踏み入れた時、あんまりにもきれいでびっくりしたわ……。自然豊かな町並みも、突き抜けるような水色の空も。どこを切り取っても美しかった。

噴水広場で景色に見とれていた時、初めて天気雨が降ってきたの。太陽の光を浴びて、キラキラと降り注ぐ雨は、噂通り、ダイヤモンドのようにきれいだった……。青い空は他の国でも見られたけど、こんなに美しい雨を見たのは初めてだった。だから、感動して、踊らずにはいられなかったの。笑っちゃうでしょ……ねえ、聞いてる?」

僕にとっては「日常」の景色に感動して、あの場で、思わず、雨の中、ダンスを踊ってしまったって?? 鳥肌が立った。これが芸術家なのか。芸術家の考えていることなんて、到底理解できそうにない。聞こえないふりをした。


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翌朝、彼女は僕と一緒に家を出た。昼と夕方に噴水広場でダンスの公演をして、空いた時間で保育園や小学校のダンス講師をするらしい。公演については、市街地周辺の住宅や商店を中心に、チラシをポスティングして告知するそうだ。ダンス講師の仕事も、この国に来る前に保育園や小学校に電話で問い合わせていたらしい。実に用意周到である。

しかし、ここは容赦なく天気雨が襲う水色の国。雨が降る前提で生活している我々は、どんなに天気が良かろうとあまり外出をしないのだ。果たして上手くいくだろうか? ――……と、意地悪く高見の見物をしていたのも束の間、彼女の名声は瞬く間に水色の国に広がっていた。



「最近、噴水広場で異国のダンサーが踊ってるって話、知ってる?」

彼女が水色の国にやってきてから数週間後、研究所の食堂で昼食を食べていると、同僚が僕に尋ねてきた。定食の白米をのどに詰まらせそうになる。お弁当用に作り置きしていた料理は、勝手に彼女に食べられるようになっていた。芸術家はお金がないのだ。仕方がない。僕は寛容だ。

「へえ、そうなんだ」

知らないふりを決め込む。彼女が僕の家に居候しているなんてバレたら、面倒なことになりそうな予感がした。それじゃなくても、普段から「女っけがない」とからかわれているのに。

「うちの子どもの保育園でダンスも教えているみたいなんだけど、雨が降っても外で泥だらけになって踊るんだよ、おもしろいよな。洗濯物が増えて苦情殺到かと思いきや、子どもたちも楽しんでるし、先生やママからも評判が良いんだって。ま、室内遊びだけじゃ子どものエネルギーは放出できないからな」

エビフライを口に運ぶ。サクッとした音が耳に心地良い。生き生きとした表情で家に帰ってくる彼女の姿から、仕事は順調なんだと感じていた。でも、こうして職場の同僚から人づてに彼女の評判を聞くのは、なんだかこそばゆい気持ちになる。

「でさ、夕方に噴水広場で公演があるらしいから、休憩がてらちょっと見に行かねえ?」
「え?!」

思いもよらぬ誘いに、大きな声で驚いてしまった。研究所から噴水広場までは歩いて5分ほど。さっと見に行って帰って来られない距離ではない。現に、彼女の公演を見るために数分離席している職員がいるようだった。研究所では、天候のデータを解析したり、実験や学会の準備をしたり何かと頭を使う仕事が多い。所全体で適度な息抜きが容認されていた。

「いや、僕はまだ仕事があるから、もうすぐ学会もあるし……」
「堅いこと言うなよ。公演は4時スタートだから、5分前に研究所の入口集合な。じゃ、また後で!」

彼は反論の余地を残さず、きれいに平らげたエビフライ定食のお盆を持って去っていった。……僕は、人よりごはんを食べるのが遅いらしい。


午後3時55分、研究所の入り口には10人も集まっていた。同僚曰く、他の人にも声をかけたらこんなに集まったらしい。それほど彼女は話題なのだろうか。ぞろぞろと噴水広場に続く石畳を歩く。

噴水広場には、すでに人だかりができていた。小学生か、それより小さい子どもを連れたママの集団、ご高齢のマダムたち、車いすに乗ったご老人をつれた介護職員、市街地の商店の店主や従業員、制服を着ているのは高校生だろうか。老若男女、幅広い人々が集まっていて感心してしまった。僕たち研究所の人間は、人だかりの後ろから公演を見ることにした。

4時ぴったり、三段噴水の前に黒いワンピースに身を包んだ彼女が現れた。群衆へ一礼すると、どこからともなく音楽が流れ始める。透き通るようなピアノの旋律。クラシックのようだけれど、聞き覚えがない。異国の音楽だろうか。

音に合わせて、ダンスが始まる。ゆったりとした音楽が流れている間は、クラゲのような動き。少しずつリズミカルな曲調に変わっていくと、彼女の動きもキビキビと変化し始めた。腕を大きく広げたり、片足でくるっとまわり、高くジャンプしてみせたり。規則性のないダンスを、観客は嬉々ととした表情で見つめていた。

ふと、初めて彼女のダンスを見た時のことを思い出した。僕も、こんな恍惚とした表情で見つめていたのだろうか。

ぽつっと鼻先に雨粒があたる。ぽつぽつっと頭や腕にも落ちてくる。天気雨だ。見上げると水色の空からサーッと雨が降り注いできた。高齢の観客や介護職員、ママたちは折りたたみ傘を開き始めるが、僕たち科学者を含め、雨に濡れるのもお構いなしにダンスに見入っている人もいた。

雨に屈せず、彼女は踊り続けていた。

両方の親指と人差し指を使って長方形のフレームを作る。踊る彼女と大噴水を指の中に収めた。キラキラと輝く雨。神々しい西陽。厳かな三段噴水。微笑を絶やさずに踊る彼女。まるで一枚の絵画を見ているようだ。

――……ああ、そうだ。あの時、僕は。
ここで踊る君を見て、はじめてこの国が美しいと思ったんだった。


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水色の国の風景を集めてみたくなって、フィルムカメラを始めた。市街地の電気屋さんで急に中古のカメラを買ってきた僕に、彼女はとても驚いていた。どうやら僕は、日頃から研究にしか興味がない、無趣味な人間に見えるらしい。彼女に指摘されて、僕は初めて趣味がないことに気がついた。

休日には、フィルムカメラを持って外へ出かけるようになった。泥のように眠るか、平日にやり損ねた家事を片付けるかしかすることがなかったし、買い出し以外で外に出るのは新鮮だった。

国のシンボルである大噴水、色鮮やかな花を咲かせている住宅街の花壇、苔の生えた石畳の階段、色とりどりの傘を持ち市街地を行き交う人々――……天気雨が降ろうが構わずに、たくさんの風景を写真に収めた。国内メーカーのカメラは防水に優れたものが多くて助かった。

天気雨の降る景色の方が、降っていないよりも格段に美しかった。きらっ、きらっと太陽に反射する雨の雫が眩しい。まるで光の雨のようだ。あんなにも鬱陶しかったのに、今では天気雨が待ち遠しくて仕方がない。天気雨の降る街を高台から撮影した時、光が街を包んでいるように見えて、この国は神様に守られているのかもしれない、とさえ思った。

天気雨を撮るのは難しく、まだ上手とは言えないけれど、雨上がりに撮影した写真は「我ながら上手く撮れている」と自画自賛したくなった。水たまりに映るレンガ造りの古い町並み。青色のパンジーの花びらについた透明な雨の雫。大噴水にかかる大きな七色の虹の橋。僕は、写真を撮るのがますます好きになった。


踊っている彼女の写真もよく撮った。噴水前での公演はもちろん、子どもたちにダンスを教えている姿、ついでに美味しそうに僕の作ったご飯を食べている瞬間なんかも。僕が写真を撮ると、なぜだか彼女もうれしそうだった。はじけるような彼女の笑顔に、癒やされるような気持ちになっていた。……ひょっとして、それってちょっとおかしい?

でも、彼女が水色の国にやってこなかったら、この国を美しいと思うことはなかっただろう。なかなか外で遊ばせてもらえなかった幼少期から、ずっと天気雨が嫌いだった。十代の頃は湿気のせいでまとまらない癖っ毛にイライラしていたし。科学者になってからは、天気雨の謎を解明して、この国の暮らしを良くするんだと躍起になっていた。

天気雨を「見よう」としたことなんて、一度もなかった。

「水色の国に降る天気雨が美しい」ことは、僕にとって世紀の大発見だった。



もっと上手になりたいと、初心者向けのフィルムカメラの本や、写真の雰囲気が好きなフォトグラファーの写真集を買って、独自に研究することにした。僕の撮った写真と見比べながら、今度は別のアングルで撮ってみようとか、カメラの数値の設定を変えてみようとか、改善案を考えるのが楽しかった。

写真もダンスと同じ芸術の一種だ。始めたばかりの僕には、何が良くて何が悪いかわからない。彼女も、ダンスを始めた時はそうだったのだろうか。いつ頃から納得のできるダンスを踊れるようになったのだろうか。僕は、彼女に芸術について「質問」するようになった。

「今まで全然私の話なんか聞いてくれなかったじゃない」とふてくされていたけれど、彼女はなんでも質問に答えてくれた。何をきっかけにいつからダンスを始めたのかとか、どこで修行を積んだのかとか、初めて人に見せた時はどうだったのかとか。理解できることとできないことはあったけれど、ダンスの話をしている彼女は、踊っているのと同じくらい生き生きしていた。

「ねえ、僕の写真、どう思う?」
「どうって? とても素敵だと思うけど」
「そうじゃなくて、芸術家の先輩として、何かアドバイスはないの?」

アハハっと彼女は声に出して笑った。

「続けるのよ、ずっと」


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晴れの日が多くなると、彼女はこの国から去っていった。

冬の時期の方がいくらか過ごしやすいのだが、「雨は創作意欲を刺激するの」と彼女は得意げに言った。天気雨の降らない水色の国にはさほど興味がないらしい。なるほど確かに。妙に納得してしまう自分に驚いた。あの天気雨の美しさを知っているのといないのとでは大違いだ。

水色の国の人々は、彼女との別れを惜しんだ。小学校や保育園の子どもたち、老人ホームのおじいちゃんおばあちゃん、公演を見に来てくれていた常連さん、市街地の商店の人々、アパートメントハウスの住人まで。彼女はこの国の人に愛されていたようだ。

「泣かないで、また来るから」と、彼女は困った顔で笑った。湿っぽいのはお気に召さないようだ。雨上がりの空のようにカラッとしている姿が、彼女らしかった。


季節が巡って暖かくなり始めた頃、僕の部屋に彼女からポストカードが届いた。現在は、水色の国からずっと北にある雪国に滞在しているらしい。ふわふわの雪が最高! でも、外でダンスの公演ができなくて困っている、と書いてあって笑ってしまった。それに「こっちの国でも雨は降るけれど、あれほど美しい雨は降らない」とも。僕は誇らしい気持ちになった。

ポストカードは、青々とした空の写真だった。今、彼女が滞在している国の空なのだろうか。澄み渡る青空が、この国の水色の空と同じくらい美しかった。

返事を出さなきゃ。せっかくだから、僕が撮った写真をポストカードにして送ろう。彼女が大噴水の前で踊っている写真にしようかな。それとも、ついこの前撮った、天気雨の降るまばゆい市街地にしようか。そうだ、僕の近況も書かなきゃ。効率的に天気雨を撮るためには、やっぱりこの天候の謎を解明しなければならない。写真を始めたおかげで、研究にもやる気が出たよって。


郵便局にポストカードを出しに行く。「切手が足りなかったから、貼って出しておいてください」と、カウンターに座っている局員に手渡した。宛先を確認すると、「ああ、あのダンサーへお葉書を出すんですね」とほほえんだ。デスクの引き出しから切手を取り出しながら、「彼女のダンス、心が洗われますよね。私も何度も噴水広場まで見にいきましたよ」と話してくれた。

水色の国を去ってからもう何ヶ月も経つのに、まだ覚えてくれている人がいるなんて。彼女のダンスは、ちゃんとこの国の人々の心に届いていたんだ。改めて感心する。これが「芸術家」ってやつなのか。

「彼女、いつかまた水色の国に帰ってくるんですかね?」

また来ると言っていたけれど、どうだろうか。大体、彼女は掴みどころがないんだよな。ともに過ごした日々を思い出す。ふふっと笑みがこぼれてしまった。

「はは、やっぱり、僕にはわからないよ。芸術家の考えていることなんて」



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写真提供:ゆっこ(Twitter@yukkocamera0035)さま
Special Thanks:宿木雪樹さま
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