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「推し」という習慣

ほか様の気持ちなどに感化されてスマホに指を這わせました、サクライアキでございます。

ただ気持ちや考えたことを書き連ねるだけの日記未満のようなものなので、クソ駄文になることは確定ですが、リンクを踏んでくださったのであれば、ぜひお付き合いください。これも何かの縁でしょう。


さて、本題となるのは「推し」です。「自分にとって推しとは何なのか」「推しとどういう関係になりたいのか」といったこと、全部ひっくるめて「推し」という本題とします。
ズバリいうと、僕にとっての推しとは「習慣」です。「推しを推すこと・摂取すること」が完全に習慣化しているということです。
僕の推しは、1つにボカロ、2つにプロセカ、そして3つにプロダクション体育館です。体育館を推し始めて早2年弱。これに関する意識もかなり変化してきていると思われます。

とはいっても、プロセカや体育館に出会う時点で、僕にとって推しは習慣でした。
ボカロに出会ったのは5歳の頃、親がTSUTAYAで借りてきたCDを車で流した時の「イカサマライフゲイム」。それが全ての始まりと言えましょう。今までにないセカイに魅せられ、いつのまにか車内でボカロを聴くことが楽しみになっていました。
それ以降、暇さえあればニコニコやYouTubeでボカロを片っ端から聴いていました。曲を聴きつつ作業をすることもありましたが、むしろ「作業をしながら曲を聴く」といってもよかったでしょう。僕にとっての推し事は「聴くこと」。とにかく聴いて「ここはこうなのか」「なんてすごい曲なんだ」と唸ることが推し事でした。プロセカもほぼ同じものであり、リリースされた頃にすぐ習慣に溶け込んでいました。
小学校に入る前から推し方や好きの楽しみ方を体得していたゆえに、「どう推すのか」といった行為について考えるようなことは一切ありませんでした。そんなこともあって、体育館を知って、Twitterを始めてからはそういったことに苦悩する人の多さに驚かされましたね。

続いて「推しとの関係」。これに関しては、すごく難しい問題だと思います。

僕にとっての推しは「関われないもの」でした。ボカロもプロセカも、別次元のもので、触れたり話しかけたりすることはできません。
それに対してのプロダクション体育館。推しとの距離がかなり近く、最初こそその偏差で変な思考に行き着いたりしていましたが、今はもう落ち着いております。

推しとの関係。それについて悩むことがあるとすれば「僕が推していいのか」ということでしょう。推しとの関係性とは全然違いますが。

僕は、ケモノ着ぐるみを推す人物としてはかなり奇怪なスタンスをとっていると思うのです。
まず1つめは「プロダクション体育館以外に好きなケモ着ぐがいない」ということです。体育館で着ぐるみを知った僕は、「初めて見知ったものから視野を広げようとしない」という悪癖によってプロ体以外の推し着ぐがいない状態です。約2年、ずっと。信者ではないと思いたいですが、どうにも興味をそそられるものがなく、挙句、体育館の日の着ぐるみ参加について「なんでプロ体以外の着ぐるみがいるの?」と思ってしまうくらいで、現状として推せていません。「それでもいいんだよ」と思うかもしれませんが、僕としてはやはり、ちょっぴり苦しいです。ミクさんや東雲姉弟たちと違って、推そうとしたり拒もうとしたりしようとする子達に、「人格」があるので。

2つ目は、「グリーティングが嫌」ということです。これが悩みとしては大きいですね。
僕は着ぐるみのパフォーマンスが大好きですが、グリーティングや抱きついたりなどは、ハッキリ言って嫌です。なぜなら、「僕が推しに触るなんて、烏滸がましい」と思っているからです。
「推しは触れないもの」という認識による偏差のバグ、そして、着ぐるみとは切っても切り離せない「中の人」について、完全にキャラと中の人を切り離して考えてしまっていることにより、僕自身の「烏滸がましい」という気持ちが前に出てしまって、触りたくないと思ってしまいます。
恐らく、僕はパフォーマンスステージのあるイベント以外に行くことは無いでしょうし、行ったとしでグリーティングには参加できないでしょう。
もし推し相手からハグのようなことを要求されたら間違いなく拒絶してしまいます。でも、もしそんなことをしたら推しがどう思うか……。
そんなことを考えると、「僕はケモ着ぐ界隈には向いてないんじゃないか」と感じてしまいます。


とまぁ色々と話してきましたが、まとめようかな。まず、どれだけ悩んでも推しに救われることだけは忘れないでいたいと思います。
「推しとの関わり方」や、個人的な悩みについてどれだけ悩んでいても、推しの写真や推しの歌を見聴きすれば一瞬で消し飛んでしまいます。僕はボカロと体育館によって何度も救われてきました。
推しについてどれだけ悩んでも、結局は推しに救われる。自分がどれだけ自己嫌悪に陥っていようと、推しを見れば「俺の推し、きゃわ〜〜〜〜〜♡」となります。

それでいいんです。自分の習慣に悩むことなんて愚かしい。どれだけ足掻いても自分は推しが大好きなのだから、どれだけ一筋の愛でも、その愛を抱きしめて、推していく。それでいいんです。
僕は、食事をするように、睡眠するように、排泄をするように、何かに性的に興奮するように、推しを推します。
色んな形で、推しを推すだけです。
認知されようと、知り合い・友人になろうと、推しが死んでしまおうと、逮捕されようと、推すだけです。僕はずっとそうしてきました。
推しが1つ増えただけで変わることは有り得ません。いつも通り、推すだけです。


それがサクライアキの推しに関する答えです。
皆さんは、いかがでしょうか。

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