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雑居ビルを眺めながら 3

「雑居ビルを眺めながら」とタイトルを打っておきながら、前回はビルの中へ入ってしまったのだけれど、昨年は眺める機会すらなくて、ひたすらPCの画面越しに知らない景色を眺めていた。

自分が捉えたものは一過性に過ぎなくて、それはきっといつも変わらないことのはずなのに、改めてその事実を突きつけられると足元が揺らぐ。日々も習慣もずっと続くものではなく、捉えたと思った瞬間すらもう過去のものになってしまう。書かれた言葉もたった今発せられた言葉も、次の瞬間には遺物だ。では、今ここに在るとはどういうことだろう。言葉を糧に先を描くことは出来るのだろうか。何かを捉えてしまうまでに繰り広げられる飛躍を、想像を、少しでも豊かにすることを言葉によって出来るのだろうか。

久しぶりにカフェの座席に腰掛けたのは、昨年の秋口。長袖が恋しくなる時期だった。通りに面したカウンター席はよい具合に埋まっていて、入り口近くのソファ席に落ち着く。見上げた位置に小さな窓があり、見えるのは古いマンションと灰色の空。目の前の本棚には古い雑誌が整然と並んでいる。そのうちの一冊を引き出すと、今として書かれたはずの言葉が舞い上がるようにして、縒れたページをめくるたび、今となっては見えない景色が浮かぶ。古い雑誌が指し示した「今」と目の前の景色のタイムラグ。再び窓の外のマンションに目を向けると、まるで言葉が立っているようで、屋上の錆びた柵や剥げた塗装、一律に閉ざされた窓とバルコニーで揺れる洗濯物と、ひとつひとつが経過した年月や人の気配を指し示すから、それが今だとわかる。雑誌の方がマンションよりもあとに出来たはずなのに、古くさく感じられるから不思議だ。生きていること、を思う。同じく書かれたものについても、たとえ年月が経過していようと、「今」として読まれるということがあるかもしれない。そこにある普遍性とはいったいなんだろう。生きているということが感じられること。言葉は伝えるものとして機能することが多いのだが、分かり切ってしまえばそこで潰えることも多く、むしろそこからはみ出すような、不可解な言葉は延々と何かを訴えるようにして、長い年月を越えていくのかもしれない。

それにしても、これは常々感じるのだが、書かれたことを手渡すと、その瞬間からもう、違う言葉として捉えられていて、見る人によって言葉というものが違うことに気づく。だから、捉えた瞬間から過去になった言葉も、多くのひとが交差することで違うものになっていく。街は、こうして生まれたたくさんの世界の集積でしかないとすれば、それらがすれ違うこと、交差することで絶えず生まれ続けるものがあるのだろうと思う。ソファから眺めるマンションも雑誌も、コーヒーの香りも、同じものを見ていても、捉え方によって幾重にも世界は立ち上がる。延々と断言できずに続いていく。何が正しくて、何が現実かなどわからない。こうして続く言葉が、束の間、今という時間を感じさせるのかもしれない。まるで錯覚のように。

だから、誰かの目を通過したものはすべて虚構と呼べるのかもしれない。その景色に触れたのち、一体どんな現実を開くことが出来るだろう。そして、次への想像力のためにどれだけの飛躍が出来るだろう。そのことの方が大事なことのように思う。

こんなことをぼんやりと考えられるこのカフェも実は雑居ビルのなかにあって、しかし、訪れた一週間後に閉店してしまった。あまりにも予期せぬことで、ショックだった。今となってはその空間を、外からしか見ることが出来ない。見上げた窓にはまだフラッグが残っていて、コーヒーの香りや流れる音楽がありありと浮かんでくるのに、もう記憶の中にしか、あの空間はない。しかし、こうして記憶に残ることが生き続けるということなのだろうか。

見上げたビルは虚構のようにして、だが、確かな手触りを残したまま、記憶の隅にあり続けている。


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