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混沌と秩序の果てに―富田真人監督映画『the Body』

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「死んでるのか?」
「それ以上よ」

この2行を前に私たちは一体どう応答すればよいのか。詩人・広瀬大志氏の「肉体の悪魔」(『髑髏譜』思潮社/2003)より引用されたこの圧倒的に不可解な2行は、問いとして成立していながら、まず問いかけられる対象が誰であるのか、第三者が存在するのか、あるいは話者自身がすでに死にゆくものであるのかという様々な憶測を内包し、それに対する答えもまた、領分を越えるかのように新たな問いを導き出す。

2020年10月11日、せんだいメディアテークにて、富田真人監督による映画『the Body』を幸いにも目にする機会を得た。ひとことで言ってしまえば、生と死の狭間にある身体という根源を揺さぶる映画だったと言える。だが、当然のごとく映画とはそうひとくちに言ってしまえるものではない。これから見るひとのために多くは語らないが、この作品の軸となっているのは、冒頭にあげた広瀬氏による詩の2行、そして「14:46」という時間である。

chapter1では、日常に忍び込む「死神」の手がまるで現実と乖離するかのように映し出される。この時点で見る者の意識は、完全に生者の側にあることを指し示すかのように。だが、事態が展開していくにつれ、それは狂気さえ含む混沌の領域へと進んでいく。

失われたものとは何か。「スマホを失くした女」を追う視点を通して、むしろ、今在るということ、そのものが問われていく。ここに存在するということは、失われたものによってあるいは見えないものによって動かされているのか。スクリーンに映し出される「スマホを失くした女」を追っているように見えて、見せられているという反転。では一体誰に見せられているのか。劇場のシートに埋まるこの身体さえ糸で操られているような。

再び問う。失われたものとは何か。それは死を意味するのだろうか。そして、死を定義している認識そのものが生者のものでしかないと気が付くとき…。

だが、答えは留保されたまま、ダンサーの肉体が表出する。
見えない目。
聞こえない声。
失われたあらゆる気配を纏って、身体がここに在ること。それは、2011年3月の「14:46」という時間に決定的に起こった断裂、その事後を生きる身体を問うことにほかならない。

むろん、この映画に明確なテーマは設定されていない。わかりやすい秩序を見出したからといって、それが答えであるはずもない。むしろこの映像の本領は、混沌、エログロ、カルト…そう呼ぶ方がふさわしいだろうか。煮え切らない光。だがそれもまた光であること。

おそらく、見るたびにこの映画はあらゆる問いを投げかけてくるだろう。肯定と否定を繰り返し、問いそのものも反転していく。そして、冒頭の2行がすでにこの混沌と秩序を内包しているのである。

「死んでるのか?」
「それ以上よ」

『the Body』が多くの人の目に触れることを祈る。


※画像は富田監督の許可を得て掲載しています。


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