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雑居ビルを眺めながら 5

いつかまたそこへ行こう、と思って久しく行かない。そんなこと、一回や二回じゃない。たまたま仕事で、用事があって、近くまで来た。それで、少し歩けば辿り着けるのだけど、今日は時間が足りないと思う。あるいは、疲れたと思う。公園のベンチに腰掛けると、遠くに高層ビルは建って、それから老眼のようにぼやけた手前のビルに焦点を合わせると、煤けたビルの裏側が見えた。この前まで、違うビルに隠れて見えなかったはずだが、すっかり開けた手前の駐車場から見上げたら、煤けた壁はまだ日向に慣れてはいない表情を見せるだろうか。

真新しくはないし、着飾りもしない、本性というものが出てしまうことがあって、そのことが人との間を親密にさせるきっかけになることもあるけれど、社会においては大抵気まずさを残すものとして、後味が悪く、存在する。他人のことならば、すぐに忘れてしまう、取るに足らないことだけれど、自分のこととなれば、案外引き摺ってしまうものだ。何も悪いことをしているわけではないけれど、なるべく素性を明かさずに過ごしたい。例えば、履歴書に「社会貢献をしたい」と書いた。この小さな記述が延々と監視装置みたいにしてついて回る。関門を乗り越えるために使った、ある種の正しさが、嘘はついてはいないのに本音ではないという摩擦のせいで、日々を重だるくする。でもこれは一体誰の正しさなのだろう。貢献をしているつもりで、そもそも社会とは何かなんて捉えられないし、そのことに無頓着であることが、誰かに犠牲を敷くということもある。それで、何が言いたいかというと、ビルだ。煤けた壁がむき出しになっている。蔦が這う。今まで見たことのない表情を見ると驚く。だが、これがビルの本来の姿かといえば、それは違う。隠れていた場所に陽が当たる、当たっただけ。時間によって、角度によって、その時の空気、自分の気分。見え方など幾らでも変わる。ただ気が付かなかっただけなのだ。

だからきっと、本性だと思っているものも、思い込みに過ぎなくて、本当なんてものはどこにもない。目で、耳で、皮膚で捉え、流れていくものの中にほんの束の間、安堵を感じたこと、驚いたこと、悲しく思ったこと、この小さな積み重ねが糧となって信じるものになっている。目の前のビルは、日が当たらないことで積み上げた痕跡をとうとう晒す日が来て、今度は陽が当たることで、再び違う形を積み上げていくことだろう。

街にあかりが灯りはじめ、ビルの窓にもぽつぽつと灯る光。その一角、少し薄暗い、あれは何の店だろう。街の景色が少しずつ変わっていく。そういえば、また行こうと思っていた場所へ足を延ばしそびれてしまった。それは、本当は行きたくないのではなくて、きっとまだその時じゃない、それだけなのかもしれない。

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