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日本人が「在日コリアン」をこんなに嫌う理由は・・・

 日本人は「在日コリアン」が本当に嫌いだとつくづく思う。長い戦後社会のうち一時期はマシになったかもしれないが、今再び、かなり風あたりが強くなってきた。在日コリアン4世の僕はいつもそのことを考えてしまう。

 twitterやブログ、ニュースサイトのコメント欄などインターネット上の言論を見ればはっきりわかる。さらに、今支持を集めている右派系の政治家や活動家の言葉を読めば一目瞭然だ。他のマイノリティーや、他のニューカマーの外国人に比べても、なぜか在日コリアンが罵られたり叩かれたり嫌がらせされたりすることが非常に多い。

 いや、他のマイノリティーの方々のほうが実生活上さらに辛かったりする人も多いと思うので、「彼らだけずるい」という話をしたいわけでは全くない。むしろ連帯して地位を上げていきたい、と心から思う。思うが、もはや彼らにとっても、在日が関わることはマイナスにしかならないのでは…という苦い気持ちにもなる。

 ともあれここで語りたいのは、なぜ日本人の攻撃対象はいつも「在日」に 収斂していくのかということだ。もちろん在日外国人の中で在日コリアンが中国人の次に多い(47万人)ことの反映とも取れるのだが、しかしここまで「在日」にこだわって攻撃しまくる説明にはならない。

 彼ら彼女らはなぜ「在日」ばかり攻撃するのだろうか。これは日本人に考えてほしいが、ろくな論考が見つからない。リベラル側も「ヘイトは底辺のはけ口」みたいな的外れな議論をしてるだけである。だから当事者である在日の僕がいつも考えている。

在日は生きる「トラウマ」

 考えうる一つ目の理由は、「トラウマ」だ。

 日本人にとって在日は、生きるトラウマなのだと思う。在日が他のマイノリティーとも決定的に違う点、それは、ポストコロニアル(「植民地以後」的)な存在だということだ。

 言い換えると在日が今も脈々と存在し続けること自体が、大日本帝国後期の侵略の記憶・・・忘れたいらしいその忌まわしい記憶の喚起装置たりうるからだ。在日はただそこに生きているだけでつねに、大日本帝国が何をしたかを証明する存在だからだ。

 ここで言うトラウマは俗語として使っている。幼い頃、または恋愛や仕事の上で、皆さんにもトラウマの一つや二つはあるだろう。不意にそのトラウマを掘り返されるような物事に出会った時、トラウマ的に図星なことを言われた時など、自分でもびっくりするくらいに感情が強烈に反応してしまったことがあるのではないか。

 この現象の主語が日本人、トラウマの図星を付いてくる存在が在日コリアンなのである。在日の存在は、負の歴史と不可分だ。だから「自慰史観」のムードが高まれば高まるほど、ヒステリーの矛先は在日に収斂していくのだ。それは間違ってもニューカマーの外国人ではなく、ニューカマーの韓国人留学生ですらなく、「あの素晴らしい(忌まわしい)大日本帝国」時代から居着いている、オールドカマーの在日コリアンなのである。

肌の色が同じだから

 二つ目の理由は、「見た目がほぼ同じ」であることだ。

 ほぼ同じというと語弊があり、実際には注意深く接するとある程度見分けがついてしまう。顔つきや骨格などに、生育環境だけでは同化しきらなかった民族的な形質というものがあるのは当然のことだ。それに、在日として日本を生きてる人特有の振る舞いや言葉遣いもあるのかもしれない。あれ、この人なんか在日っぽいな。と思ってよくよく話してみたら在日だった。みたいなことは、たまにある。在日同士だと雰囲気でわかったりする。おそらく日本人の差別主義者が在日を見抜こうとする時よりも、それなりに確度が高いだろう。

 ともあれ、例えば白人とアジア人、アジア人と黒人という話であれば、すぐに見分けがついてしまう。そこまで遠く離れなくても、東アジア人と東南アジア人というのでも「あれ、なんか違うな」とお互いにわかるだろう。

 しかし、在日は割と、これがわからない。肌の色はほとんど同じ。その違いは「言われてみれば」というレベルであり、「言われなければ」気づかなくて普通、というレベルにはほとんど同じである。

 これによって何がどうなるのか。「見た目が違うから差別する」などの単純な次元の排斥は起きないということだ。逆に、「見た目が同じようだったのに、在日が紛れているのかよ!」という強迫観念が日本人の中に生まれ続けるのだ。

 どいつもこいつも在日かもしれない。俺たち日本人様が気づかないうちに、凶悪なことを企んでいるのではないか? この強迫観念は、何か話題の犯罪が起きるとGoogleのサジェストやトレンドブログ に被疑者の名前と並んで「在日」みたいな文言が出てくるのを見ればよくわかる。

通名があるから

 上記の「どいつが在日だかわかったもんじゃねえ」という強迫観念を支えるもう一つの理由は、通名だろう。

 僕は在日コリアン4世で、生まれた時から通名の苗字を名乗っている。学者の姜尚中さんは人生の途中で通名→実名に変えたことで有名だが、そんな生き方の在日は一握りだ。多くの人は生まれてから18歳くらいまで呼ばれてきた名前が実名であれば実名、通名であれば通名で、そのまま生きていく。それは本人の選択ではなく、不選択の結果である。言い直すと、フツーに生きてたらそうなってるだけ。

 先祖の選択なのかもしれないが、それすら不選択の可能性も大きい。歴史修正主義者が否定したがる「創氏改名」の名残でもあるだろうし、香港人が英語風の名前を持ってたり、どう考えても元々は英語圏じゃない植民地出身の肌の色をした人が英語風の名前を持っていたりするのと同じことと捉えてみてもいい。というか、アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられた人の子孫の苗字が「ホワイト」ということは普通にあるわけだ。

 つまり通名制度自体が単体で日本人のパラノイアを生んでいるわけでもないだろう。上記の「大日本帝国のトラウマ」があり、「肌とかで見分けがつかない」という近さがあってこそ、「通名」が併せ技として効果を発揮しているのである。

在日は今も、大日本帝国の臣民

 大日本帝国は日本国に変わったが、最高指導者だった天皇はそのまま鎮座した。そしていまだに政権を担う人々は帝国時代の戦犯や、朝鮮人を強制労働させた炭鉱経営者の末裔である。新札の肖像画はコンキスタドールが飾る。そういう日本を生きていると、大日本帝国に負の歴史などまるでなかったかのように感じる。せいぜいアメリカに無差別爆撃されたという最晩年の記憶だけ被害者感情で語ればよく、それ以前にアジアに無差別爆撃したことや侵略しまくったことは、都合よく忘れればいいーー。

 そんな彼らの心にとって、いまだに帝国の暗部を前提としてしか存在し得ない在日コリアンが、脅威なのだ。妄想や自慰、歴史からの逃避に耽っているところ、在日という存在にふいに現実を突き付けられるので、気が狂いそうになってしまう。それが攻撃に繋がるのだろう。

 在日と向き合えば、日本人は自然と帝国のあらましに向き合わざるを得なくなる。皮肉なことにいわば在日だけがいまや、日本人にとっての「我が心の大日本帝国」なのではないか。近くて遠い、内なる他者、内なる帝国なのだ。その意味で在日コリアンは今も、時代に取り残された「大日本帝国臣民」なのかもしれない。

 もはや戦前の方が近そうな世相だが、日本人が在日と向き合えない限り、つまり歴史と真正面から向き合えない限り、戦後はまだまだ終わらない。

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