なぜ男性だけスーツを着なければならないのか?
なぜ、多くのビジネスシーンにおいて、男性だけスーツを着なければならないのか?
これは私が子どもの頃からずっと抱えてきた疑問です。
毎朝の満員電車の中は、季節を問わず画一的なデザインや色彩のスーツ姿の男性ばかりでぎっしり。
一方、女性たちに目を移すと、夏は涼しげに軽快に、冬は暖かく体を包み込むように、四季に応じた個性豊かなドレスコード。
こんな光景は見慣れた日常。そう思う人は多いでしょうが、ふと立ち止まって考えてみると、おかしくはありませんか?
昭和の時代には、スーツは企業戦士たるビジネスマンの象徴であり、むしろそれに身を包むことを誇りに思う人も多かったかもしれません。
平成も前半までは、女性の社会進出がまだまだという時代背景の中で、男女のドレスコードが違うのはやむを得ないという考えが中心でした。
そして、共働き世帯が飛躍的に増えて、専業主婦が減少の一途をたどる平成後半を経て、令和の時代。
女性が結婚して出産してもフルタイムで働き続けるのが普通の時代となり、男性の家事や育児への参加がますます大きなテーマになっています。
非正規雇用として働く女性の待遇の低さが社会問題ともなっていましたが、2020年4月からスタートする「同一労働同一賃金」によって、徐々に是正されていくことが見込まれます。
ハローワークなどを中心とする募集求人の現場でも法律によって女性に対する差別解消がさらに強化され、男性と等しい職場環境で働き続けることへの後押しがはかられつつあります。
もはや、男性はビジネス社会の“主なメンバー”だからスーツを着ることが義務づけられ、女性は“サブ的なメンバー”だからある程度自由な(カジュアルな)服装でも許される、という慣行が「常識」とはいえない世の中になってきています。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、選手団の制服における“男女差”の解消がはかられ、スカートの廃止やパンツルックへの統一などを盛り込んだデザインが発表されています。
JR東日本をはじめとする大手企業でも、パンツルックへの統一、ネクタイやリボンの廃止や統一、帽子などのアイテムの選択化などが進められています。
中学・高校などの教育現場においても、全国的に同様の取り組みに向けた試行が盛んになりつつあります。
男性=スーツしかダメ、女性=カジュアルOK。こんな思考停止とも思える固定観念は、徐々にしかし確実に変貌しつつあるといえるでしょう。
2020年6月からはいわゆるパワハラ防止法が段階的に施行されますが、男性=スーツ、女性=カジュアルといった職場慣行は、間接的とはいえパワハラの温床となる可能性があるでしょう。
「男性だけスーツを着なければならないのか?」
冷静に考えると、そうしなければならない理由はまったくありません。
むしろ、企業の秩序維持という目的で男女を機械的に振り分け、それぞれに異なるドレスコードを義務づけてきた今までの慣行や習慣は、確実に見直しが必要な時代となってきているでしょう。
従業員のドレスコードをめぐる裁判には、男性のひげが論点となった大阪メトロ事件などがありますが、裁判所は基本的に個人の服装や表現の自由を認めています。
ひと昔前までは、法律家の世界でも、企業が男性にのみスーツ着用を義務づけるのは社会通念の範囲内と考える人が多数派でしたが、今では一定の多様性を認める理解が支配的になりつつあります。
スーツ着用が正面から問われた裁判はありませんが、おそらく令和の時代に提起されたならば、一般的な業種業態の企業は敗訴する可能性が高いでしょう。
私は、働く人の服装は合理的なものであるべきだと思います。
トヨタ自動車のように、男女がまったく同じ作業服で、社長までもが訓示では同じ作業服を着用することには、日本的な美しさを感じます。
でも、公務員や一部の金融機関のように、男性のみが強制的にスーツを着用させられて、同じ職務内容の女性は女性であることのみを理由にカジュアルが許されていることには、違和感を感じずにはいられません。
それが「全体の奉仕者」たる公務員であれば、なおのことです。
「男はスーツを着た方が格好いい」
「スーツがあった方がかえってラクだ」
「自分からスーツを着たがる男性は多い」
こんな議論もよく耳にします。もちろん、否定はできないと思います。
ただ、人間には必ず個性があり、世の中には必ず例外があります。それは決して悪ではなく、ありのままの姿なのだと思います。
冬はセーターにカーディガン、夏はカットソー一枚で過ごせる女性の隣で、一年を問わず必ずカッターシャツに袖を通さなければならない男性の中には、肌が弱く体質的に首まわりを襟で覆うことが適さない人もいます。
クールビズとはいえ真夏にスーツやカッターシャツを身につけることで、熱中症を発症するような人もいます。
これらが「合理的な判断」であるとはとても思えませんし、自己の意思では選択できない“性別”を根拠に差が設けられているのであれば、著しい「不合理」だといわざるを得ません。
「#Me Too」運動が世界的に広がる時代。
そろそろ、男性も女性も性差を超えて等しく尊重され、当事者の意思に反したドレスコードが強制されない議論が必要でしょう。
そのことが、結果としてまだまだ根強く残る「女性差別」の解消にも通ずると私は考えています。
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。