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小田急無差別殺傷事件とミソジニー

8月6日の夜に小田急線で起こったあまりにも残忍な無差別殺傷事件は、全国の人々を心から心胆させました。今の日本でも、ここまで恐ろしい事件があるものかと、私も恐怖心に駆られました。怖くてしばらく小田急線には乗れない、という人も少なくないと思います。

容疑者は、「幸せそうな女性を見ると、殺したくなる」と語っているといいます。
若い男性が同じ世代の女性を見て、幸せそうにしていることに腹を立て、あるいは嫉妬心を抱き、その反面で自分はなんと無力でつまらない存在かと嘆く構図。
これは、典型的なミソジニ―(女性嫌悪)の思考だともいえます。



今回のような残忍な事件が起こってしまった背景として、容疑者個人の動機以外にもし何かの社会的なバックボーンがあるとしたら、それは男性特有の規範や価値観が働いている可能性があると思います。

なぜ、男性はミソジニ―的な発想を持つのか。そして、若い男性がそうした傾向を持ったとき、ときとしてそのベクトルは暴力化してしまうのだろうか。

それは、「男は男らしくなければならない」という男性特有の人生像に基づいて、生きていかなければならないという規範による功罪だという面があるように思います。

男だから、強くなければならない。男だから、働かなければならない。男だから、泣き言を言ってはならない。男だから、すべての物事に責任を持たなければならない。男だから、女のように振る舞ってはいけない。

このようなフレーズを、まさに呪文のように受けながら、男の子は男の子として育てられます。



俗に「男の子は育てにくい」と言いますが、それは男の子は女の子とは違って「男である」という事実を自己定義しなければならないから、生きづらいし、育てにくいということが言えるのだと思います。

生まれた姿のありのままに育てられ、生きていくのが女の子だとしたら、「自分は男だ」「女ではない」という事実を自己定義しなければならないのが男の子。

それは、母親の胎内に命を授かってから、男性ホルモンのシャワーを浴びて、Y染色体が芽生えて、「分化する」ことによって、はじめて「男の子になる」という出生時のメカニズムにも由来していると考えられます。

すべての男の子は、もともと生命体としてのデフォルト(初期設定)は女の子。それがいわばマイナーチェンジすることで男の子へと切り替わるプロセスを経ているから、きっと「男だから○○ねばならない」というフレーズが多いのでしょう。



男の子の視点からすると、女の子がとても楽しそうで、ラクそうで、人生得をしているように見える。それが緩やかな羨望のレベルにあるときはまだよいとして、激しい嫉妬に切り替わったり、さらに積極的な嫌悪感へと高められたとき、暴力性が問題となります。

実際には、すべての女の子が毎日楽しいと思っていわけではないし、ラクをしているどころか苦労を強いられていることも少なくないし、もちろん人生得をしているとは限りません。

むしろ、日本はまだまだ保守的な考えが強い男性社会であるため、女性差別や女性蔑視の視点は世間のあらゆる処に色濃く残っていますし、その意味では間違いなく女の子にとって「生きづらい」国だといえます。

大人になって分かるのは、一方的に楽しいとか、ラクをするとか、得をするような人生なんてないのであって、人によって場面によって紆余曲折するにしても、それなりの期間に渡ってめげずに努力を続けたら報われるのが世の中だということ。この点、基本は男の子、女の子は関係ない。



ではなぜ、男の子は女の子に対して、そんな偏った見方をしてしまうのでしょうか。

ひとことでいえば、今の世の中の男らしさ、女らしさの価値観に倒錯が起こってしまっているからだと思います。

男は、男らしくなければならない。この規範は、今なお健在です。だから、男の子は強くなることが求められるし、仕事で結果を出して家族を養うことが期待されるし、社会的にも物事の意思決定をする側に立つことが多く、常に行動と責任を負うことが当然だとされがちです。

一方で、女は女らしくという価値観には、かなりの修正がかかりつつあるのが今の世の中。明治以来の女は結婚したら家庭に入って主婦に徹するという価値観がかなり変貌して、今ではダブルインカムが当たり前だし、そうしなければ家計が成り立たない世の中になってきています。

そして、ハラスメントについての意識の高揚や啓蒙が推進されることで、女性が差別されたり、社会参加が阻害される場面について、かつてなく厳しい社会の目線が注がれつつあります。これはもちろん正しいことですし、社会的に必要なことですが、折にふれて意識と現実のギャップが指摘されています。



男は男らしくという価値観を微動だに変えないままに、女は女らしくという価値観を修正して、社会的な男女平等を推進する姿は、見取り図としては正しいのかもしれませんが、いわばアクセルとブレーキを同時に踏んでいるかのようないびつさがあります。

それが、若い男性にとっては、現実以上に「生きづらい」と感じられる所以なのかもしれません。

容疑者は「女の子からは誰からも相手にされなくなった」「自分は生きている価値が感じられない」といった趣旨のことを語ったと言いますが、このような自暴自棄な発言の裏側には、男の子であるゆえの閉塞感と、女の子に対する行き過ぎた嫉妬心や嫌悪感があるようにも感じます。



私が最近つとに感じること。男の子は、もっと自由であってもいい。必要以上に女の子を否定することで、無理に男の子であろうとすることに、少しは疑問を持ってもいい。人間の価値は、究極的には男であるか女であるかには関係ないから、窮屈に感じるほどの男らしさ、女らしさにはこだわりすぎず、ありのままの自分であっていい。

ありのままの自分。このフレーズに対して自然に受容するのはやはり女の子が多くて、男の子はある種の身構えた態度をとるケースが多いと思うのは、きっと気のせいではないでしょう。

女の子が男の子のように振る舞いたい、男の子の格好をしたいと希望すると、おてんばで手がかかる子と思われますが、同時に元気で社交的な子だと積極的に受け止められることも少なくありません。

ところが、男の子が女の子のよう振り舞いたい、女の子の格好をしたいとなつと、親はその子の身を案じ、周りは先行きを心配し始めるかもしれません。実際には人生には女性的な価値は有用なのですが、この点への理解は驚くほど進んでいないのです。



男の子が、女の子のことが理解できなくなったり、不安に思うことがあったら、自分が「男でなければならない」という窮屈な発想をしばし傍らに置いて、「男も女も関係ない同じ人間」として、ありのままに向き合ってみたらよいと思います。

今は、男の子がメイクするとか、スカートを履くくらいのことで疑われる世の中ではありません。むしろ、若者の感性でファッションや美容についてありのままに語り合うことができれば、ジェンダーを超えて仲良くなれる時代なのかもしれません。

男の子であることは、もちろんひとつの優れた価値だと思うし、それは歴史によって培われた部分もおおいにあると思います。でも、それが行き過ぎると女の子に対してある種の暴力性が芽生えたり、男の子自身を苦しめるスパイラルに陥ることも事実。



男の子は、ありのままに自己表現するのが苦手です。それは、生来の気質というよりも、歴史的に「男の子はそういうものだ」と疑われず育てられてきたからだと思います。だから、言葉が通じないし、誤解されるし、相手に理解されない。

だから、どんどん自分のことを語ってもいい。すべての感性にわたって、無理に「男の子」にならなくていい。「女の子」の要素に惹かれるものがあれば、自由に取り入れてもいい。心配しなくても、その子はその子らしく育つものです。

今回の残忍な事件を目にして、私はこんな思いをさらに強くしました。二度と繰り返されてはならないあまりにも惨すぎる事件。そのことへの思いとともに、「男の子」に対するとらえ方、向き合い方をすこし問い直す機会にしたいものですね。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。