見出し画像

こんな窮屈な時代をどう生きるか?

こんにちは。
最近、なんだか生きづらい世の中になったような気がします。
「ポリコレ」や「リベラル」が重視され、正しくてみんなが生きやすい社会を目指しているはずなのに、社会の一構成員として真逆に向いてしまっているような気がします。
特に保守的な価値観を持っていれば、強く否定されているような気分になります。
今回は、なぜそんなことが起こるのか、そんな社会で僕たちはどう生きればいいのか、考えてみたいと思います。

人はどう生きたいか。

人は皆、自由に生きたい、思うままに生きたいと思っています。
一見自由ではないように見えても(例えば、江戸時代の武士のように他の人に仕える等)、自分がそうしたいと望んでいることであれば、その人なりに自由に生きているということです。
「自分はこうしたい」といった思いの他に「~してはいけない」、「~あるべき」と言った価値観も持っています。
そして、自分自身がその価値観に準じて生きたいと思うとともに、人にもその価値観を理解してほしい、同じ価値観を持ってほしいと考えるものではないでしょうか。
色んな考え方・価値観があることは当然と思う一方で、本音を言えば自分の思い・考えを理解してほしいものです。

以前はどうだっただろう。

上記のような人の本質は昔も今も変わっていないと思います。
昔の社会は、それほど大きな社会ではありませんでした。小さな村であれば、構成員すべての人の顔が分かっていたでしょうし、誰かに嫌われては生きにくくなります。もう少し大きな社会であったとしても、悪い噂がたてば生きにくくなってしまいます。
そんな社会では、自分のことばかり主張していては嫌われてしまうのではないかという不安が付きまといます。その不安は抑圧的な社会をつくり個人の思いを抑えることで、他の構成員、つまり社会に対し迷惑をかけまいとする個人が多くなります。
そういった社会は自由を抑圧される不自由さはあった一方で、価値観は統一され、社会に適応さえできれば生きやすい社会だったでしょう。
こういった社会の成立の前提条件は①社会が一定程度小さい規模であること、②社会間の移動に障壁があることです。

今の社会は?

さて、今の社会は上記のような社会成立の前提条件が両方とも崩れています。
まず、①社会が一定程度小さい規模であることは皆さんお分かりの通り、ネットの出現により本格的に壊れました。
どこまでをひとつの社会として区切るかは定義次第ですが、一人の人間が交流可能な(アプローチしうる)人の数は昔は多くても数千人から数万人程度だったところから、現在では53億人(世界でネットにアクセス可能な人数)まで広がっています。
ネットの出現により社会の境界は曖昧になり、多種多様な価値観がひとつの社会の中に存在するようになりました。また、一人の人間が知りうる価値観の多様性も爆発的に増加しました。
このことにより一つの価値観で個人を抑圧することは難しくなっています。
次に②社会間の移動に障壁があることについては、公共交通機関の発達と教育の発展によって壊されました。
昔は海外移住するなんて一大事業であり、資金も情報も足りず、よほど向こう見ずな人でなければできませんでした。しかし、現在では物理的に海外にいくことは安価になりましたし、言語習得も機会が増えています。海外移住のノウハウも調べればすぐ出てくるようになっており、海外移住は格段に簡単になりました。他県への引っ越しであれば、もうなんの障壁も感じないほどです。
移動が簡単になったことにより、その社会に留まらなければならない理由がなくなり、もし社会で嫌われてしまったとしても、他の社会に移動するという手段が簡単になりました。
こういった社会の発展により、昔ながらの社会は破壊されました。個人の思いを抑える力は弱くなり、加えてネットにより個人の発信力が強くなったことにより、拡散力もついています。
以前はなにも言わなかった個人が、強い力で発信する社会になったのです。

そのこと自体には特に問題はないように見えます。
一個人の価値観はどんなものを持っていても自由ですし、なんの問題もありません。
しかし、価値観といっても多様であり、一個人の価値観を認めることが他の人の価値観の否定に繋がることがあります。
例えば、LGBTQの人たちがありのままで生きられるようにする、ということはなんら否定する点はなく、一点の曇りもなく正しいことです。
私個人としては、その為に婚姻制度を変えることにも反対しません。しかし、伝統的な婚姻制度を重視している人たち(所謂保守派)にとってはどうでしょうか。その人たちにとっては、LGBTQの人たちがありのままに生きられる社会の実現は、そのまま保守派の価値観の否定に繋がってしまいます。
多様な価値観を認めると言えば、耳に心地よいですが、実際にそれを実現することは難しく、ケースによっては不可能な場合もあるでしょう。
一つ、簡単に考えられる解決策は住む社会を分けてしまうことです。だからこそ、昨今は社会の分断が問題になってしまっているのかもしれません。

どちらの社会がいいかは難しい、というか人によります。社会に適応的な多くの人にとっては、考えることの少ない単一価値観で縛られた昔の社会の方が生きやすかったのではないかと思います。代わりにその社会では生きていけない少数の人を生んでしまいます。
一方で、今の社会で生きやすい人はほとんどいないんじゃないでしょうか。どんな価値観も正しいと主張可能である一方で、どんな価値観も否定され得ます。自分の生き方が正しいのか、自分の価値観は正しいのか、常に問われているような社会です。誰もが生きていける一方で、誰もが生きにくい社会であるように感じます。

そんな社会でどう生きるか。

さて、やっと結論です。一個人には社会のあり方を変えることなんてできません。出来るのは、与えられた条件の中でどう対応するかだけです。
今の社会のよい点は「自由であること」です。自分がしたいこと、やりたいと思っていることを阻害されることはほとんどありません。一番強く阻害してくるのは自分の心です。昔の社会に適応していた名残で「こんなことをすれば人に嫌われるかも」という抑圧がでてきます。
「こんなことをすれば人に嫌われるかも」は事実かもしれませんが(つまり、人には本当に嫌われるかも)、だからといって生きていけなくはなりません。人に嫌われても、昔ほどには追い込まれた状況にはなりません。
今の社会で生きざるを得ない私たちは、せめて自由ぐらいは謳歌していきたい、そう思っています。
ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?