27 第一次世界大戦と日本の外交

本時の問い「なぜ大隈②内閣は二十一カ条の要求を中国政府に出したのか。」

第27回目の授業は第一次世界大戦と日本の外交について扱いました。第一次世界大戦の特徴と第2次大隈重信内閣の大戦への対応についてが中心です。本時の問いは「なぜ大隈②内閣は二十一カ条の要求を中国政府に出したのか。」でしたね。

第一次世界大戦の特徴

第一次世界大戦の特徴は、帝国主義戦争であったことと、総力戦だったことです。

特に総力戦については第一次大戦のポスターを使って女性も戦争への協力を求められたということを学びました。

出典

日本の参戦

この頃の内閣は第2次大隈重信内閣です。大隈内閣は、日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦します。大隈内閣は東アジアにおける勢力拡大の好機ととらえてドイツに宣戦します。そして、中国山東省のドイツ膠州湾租借地や、赤道以北のドイツ領南洋諸島などを占領しました。

日本は第一次世界大戦がヨーロッパでおこなわれているあいだに、アジアでの勢力を拡大したのです。

対華二十一カ条要求

さらに1915年、大隈内閣の外務大臣加藤高明は北京の袁世凱政府に対し、21カ条の要求を提出します。内容は(第1号)山東省ドイツ権益の継承、(第2号)南満州および東部内蒙古の権益強化、(第3号)日中合弁事業などです。さらに日本は第5号で、中華民国政府に政治財政および軍事顧問として日本人を置くことも要求します。この要求のうち第5号は中国側の反対により撤回しますが、その他については強い姿勢でその大部分を中国政府に認めさせました。日本の要求を受け入れた5月9日を中国国民は「国恥記念日」としました。中国国内に反日気運が強まっていきます。欧米諸国も日本への警戒心を強めました。授業の中ではアメリカ大統領ウィルソンの発言を読み取ってもらいました。

二十一カ条要求は国内でも批判された

元老山県有朋は、「対中国関係について各国の状況を取り調べず、訳の分からぬ無用の箇条まで羅列して請求したのは、大失策である。」と述べて二十一カ条の要求を批判しています。この政策は国内でも失敗ととらえられたのです。ではなぜ大隈内閣はこのような失敗をしてしまったのか。そのことについても資料を使って考えてもらいました。

寺内内閣は日中関係・日米関係の調整をはかった

大隈内閣が退陣した後、寺内正毅内閣が成立します。寺内内閣は袁世凱政府の後継の段祺瑞政権に巨額の借款をすることで影響力の確保につとめます(西原借款)。また、アメリカとのあいだでは石井・ランシング協定を結んで、アメリカが求める中国の領土保全・門戸開放を日本が認め、日本が中国に特殊利益を持つことをアメリカが認めます。

また、1917年にはロシア革命によって世界で初めて社会主義政権が成立したことに対し、列国が共同で革命に干渉するべくシベリアに出兵します。(1918年:シベリア出兵)大戦が終結しロシア国内が安定すると列国は撤兵しますが、日本は駐兵を続けます。このことでも日本は列国から非難を浴びることになりました。

今日はここまでとします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?