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22 産業革命(紡績業と製糸業)

本時の問いは各自考えてもらいました。

第22回目の授業は日清戦争後から始まる産業革命について扱いました。本時の授業の問いは「問いを自分で立ててみよう」でしたね。

教科書にある、1885年と1899年の品目別輸出入の割合のグラフを比べ、どのような変化が見られるかに注目して問いをたててもらいました。みなさんのたてた問いを一部紹介します。

・1885年は綿糸を輸入していたのに、1899には綿糸を輸出し綿花を輸入したのはなぜか。

・主な輸入品が綿糸から綿花に変わった背景には、どんな産業の発展があるか。

・生糸の輸出割合にあまり変化がないのはなぜか。

・なぜ輸入品に機械類が出てきたのか。

・輸出品の第1位が生糸であり続けたのはなぜか。

しっかりとグラフを読み取ることができている素晴らしい問いですね!もう私が考えて授業の最初に発表しなくてもいいかもしれないですね。

紡績業と製糸業

近代の日本経済史を理解するとき、近代産業の発展を牽引した紡績業と製糸業の違いがわかっていなければいけません。

紡績業と製糸業の違いは何でしょう?製品の名前は?原料は?その製品を布にすると何というか?そのあたりを確認しましょう。

紡績業の発展

紡績業は綿花を原料に綿糸を生産する産業です。綿織物は着心地が快適ですし価格も安価、そのため多くの人が着用します。ですから大量生産しても売りやすい製品です。日本では幕末に海外から安い綿製品が輸入してきたため、国内の綿産業が打撃を受けたことは以前に学びました。その綿産業が機械による大量生産方式を導入することで復活しました。

そのきっかけとなったのは、大阪紡績会社(1882年、設立=渋沢栄一)が経営に成功したことです。その後、1880年代末~1890年代初めにかけて、紡績会社の設立ブームが起こりました。これにより紡績業は、従来の手紡ぎやガラ紡による生産を機械紡績の生産が上回るようになります。1897年には綿糸輸出量が輸入量を上まわり輸出産業として成長していきました。

日本の綿糸輸出が増えた背景を資料集から考えてもらいました。

日本の紡績業を支えたインド
1880年代の日本の紡績業は、国産や中国産綿花を原料にしていた。しかし、国産綿花は供給不足、中国産綿花では細い糸がつくれなかった。そこで日本はインドに調査隊を派遣し、インド産綿花での細い糸の製造に成功した。インド産綿花を輸入するため、日本郵船会社は1893年にボンベイ航路を開き、イギリス船の綿花輸送独占を排除した。1894年に綿糸輸出税が、1896年には綿花輸入税が廃止されると、日本の紡績業は大きく発展した。

ここから原料の綿花をインドから輸入したこと、ボンベイ航路の開設、政府の税制上の優遇などを読み取ることができます。

綿織物業の発展

綿織物業では1897年、豊田佐吉が国産動力織機を発明し、日露戦争後には大紡績会社が大型力織機を輸入して綿織物を生産しました。その結果、1907年には綿布輸出量が輸入量を上まわりました。

製糸業の発展

桑を食べて育つ蚕がつくる繭を原料とする生糸を生産する製糸業は、幕末に自由貿易が始まると海外へも販路が拡大し発展します。生糸は幕末以来、日本最大の輸出品でした。生産は江戸時代以来の伝統的な手動式の座繰製糸に加えて、輸入機械を簡素化して改良した器械製糸による小規模な工場が各地に建設されました。日清戦争後には器械製糸の生産量が座繰製糸の生産量を上回ります。そして1909年には世界最大の生糸輸出国となりました。

紡績業と製糸業

産業革命の中心だった紡績業は原料の綿花をインドからの輸入に依存しました。また紡績機械も欧米から輸入しています。ですから国内の生産量が多くなれば輸入も増えます。それに加えて1900年前後の時期は日本の重工業の発展は未熟だったため、産業革命の進展は器械や鉄の輸入拡大にもつながりました。そのため貿易収支は輸入額が輸出額を上回る輸入超過の状況が続きます。そういった中で製糸業は、国産の繭を原料として生糸を生産し、それを輸出することで外貨を獲得する重要輸出品だったのです。

紡績業・製糸業の特徴が理解できましたか。

今日はここまでとします。

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