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公武合体運動と尊王攘夷運動

本時の問い「自由貿易開始以降,国内にはどのような政治思想が生まれたか。」

第4回目の授業では,幕府内がハリスと通商条約締結に関する交渉している時期に将軍継嗣問題があったこと,1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたこと,それ以降,2つの政治思想が浮上してきたことを授業の大枠としました。
本時の問いは「自由貿易開始以降,国内にはどのような政治思想が生まれたか。」としましたね。

将軍継嗣問題は時期将軍は誰かという問題だけではない

最初に13代将軍徳川家定には子がいなかったため,将軍継嗣問題が発生しました。しかし,この問題は次の将軍には徳川慶福と一橋慶喜のどちらがふさわしいのかという話だけではなかったと言うことを,それぞれの派閥の支持者に注目して考えてもらいました。さらに橋本左内が友人に書き送った手紙から,彼の政治思想が一橋派,南紀派のどちらなのかについても考えました。

井伊直弼の大老就任と桜田門外の変

1858年,彦根藩の井伊直弼が大老に就任します。彼の政治のやり方はこれまでの幕府がとってきた政治手法でしたが,老中阿部正弘がアメリカの開国要求に対して多くの人に意見を求めて以降,幕府独裁のやり方には反発が強く,その結果桜田門外の変で井伊は倒れました。この桜田門外の変が与えた影響についても考えました。

幕府と薩摩藩による公武合体運動

桜田門外の変で衰えた幕府の権威を立て直すため,老中安藤信正は公武合体の考えのもと14代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮の婚姻を実現しますが,坂下門外の変がおきたことを確認しました。その後,薩摩藩の島津久光は独自の公武合体思想のもとで文久の改革を進めます。そこで新たに設置された政事総裁職や京都守護職などに登用された人物は一橋派の大名です。そのことから,この改革が一橋派の復権と,広く意見を集める公議を尊重した政治だったと言うことを考えました。しかし,この広く意見を求める政治というのにも問題があります。実際はこれまで幕政に関われなかった大名が政治参加を実現しただけでした。

尊王攘夷運動

尊王攘夷運動は長州藩,下級武士や民間の志士らが中心となった政治運動でした。尊攘派は,1863年に朝廷を通して幕府に攘夷実行の命令を出させることに成功します。さらには天皇を指揮官として攘夷戦争を実行する計画を立てるなど,過激な攘夷運動が広がっていきました。
さて,尊攘運動はその後どうなるでしょう。ここまでが第4回目の授業でした。

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