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5江戸幕府の滅亡

本時の問い「なぜ大政奉還がおこなわれたのだろうか。」

第5回目の授業では,過激な攘夷運動がおこるなか朝廷内では公武合体派が尊攘派を排除する動きが始まります。禁門の変の結果,尊攘派の政治的影響力は衰えたこと,長州征討にこだわる幕府を見限り薩摩が長州藩に接近して倒幕へと動き始めたこと,武力討幕の動きに対して平和的に政治体制を変革すべく大政奉還という考えが生まれたことを授業の大枠としました。
本時の問いは「なぜ大政奉還がおこなわれたのだろうか。」としましたね。

尊攘運動の挫折

尊王攘夷運動が過激さを増していくなか,1863年,朝廷内部では公武合体派が尊攘派を追放する八月十八日の政変が起こりました。京都での勢力挽回を図る長州藩は京へ派兵し禁門の変を戦いますが敗走します。このことが尊攘派にとってどのような意味を持つ事件だったのかを考えましたね。

薩摩藩と長州藩が接近し倒幕への動きが始まる

薩摩藩は薩英戦争(1863年),長州藩は四国艦隊下関砲撃事件(1864年)で列強の力を肌で感じることになりました。これ以降,薩長は列強に対抗できる政治権力の強化をはかるようになります。薩摩藩は天皇のもと雄藩大名らの公議によって政治権力の強化をはかりますが,これを幕府は断り,さらに2度目の長州征討にこだわる姿勢を見せました。これ以降,薩摩は長州に接近し倒幕へとシフトしていくことになります。その結果,幕府による2度目の長州征討は失敗に終わります。教科書ではこの長州征討に幕府が失敗した背景に薩長盟約があると説明していますが,それ以外の背景について資料をもとに考えました。米価の上昇と世直し一揆や打ちこわしの発生,民衆宗教の発生に注目しました。

武力討幕派と公議政体派の対立

長州征討に失敗した幕府の権威は地に落ちます。そうなると,次はどの勢力が政権を握るのかという動きが活発になります。幕府も将軍徳川慶喜を中心に政権の強化に乗り出します。これに対し,幕府にかわる新たな政治体制の樹立をめざす動きには2つの動きがありました。武力によって幕府を倒し政権を握ろうとする勢力と大政奉還を実現し平和的に政体変革をねらう勢力でしたね。ここで注意をしなければいけないのは,どの勢力にしても天皇のもとで公議政体をつくるという目標は一致していて,その新たな政権に徳川慶喜を入れるか入れないかが対立点になったのでしたね。そこが大政奉還から王政復古の大号令への動きを知る上ではポイントになります。
さて,武力討幕を実現して成立した新しい政府はどのような国づくりをめざしたのでしょう?

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