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15 条約改正

本時の問い「イギリスが条約改正に応じたのはなぜか。」

第15回目の授業は条約改正です。幕末に結んだ安政の五カ国条約は領事裁判権を認め、関税自主権がないなどの不平等な内容でした。この撤廃に取り組んだ条約改正交渉について、特に1880年代以降の動きを本時では扱いました。

本時の問いは、「イギリスが条約改正に応じたのはなぜか。」でしたね。

日本最大の貿易相手であったイギリスは、自分たちに有利な条約を簡単には変えてはくれません。それが1890年代には態度を変えます。それがなぜかという話です。

1880年代のアジア

まず、教科書の地図から、1880年代の日本周辺のアジアの状況を見ました。欧米列強のアジア進出は、日本の危機感を高めます。ビルマ(現在のミャンマー)は、インドを植民地としたイギリスによって併合されました。ベトナムは、清仏戦争を経て、フランス領インドシナ連邦となります。太平洋の南洋諸島はドイツが植民地としました。また、1870年代後半にロシアはウラジヴォストークに海軍を配置しています。

このようなアジア情勢に対し、日本は条約改正を実現することによって独立を保とうと考えます。条約改正について勉強をするときには年代と交渉担当者を把握した上でその内容をおさえましょう。

条約改正交渉に取り組んだ外務卿・外務大臣

1870年代には、岩倉具視-寺島宗則。1880年代には、井上馨-大隈重信。1890年代には青木周蔵-陸奥宗光。そして1911年に小村寿太郎が条約改正を完成させます。

井上馨の条約改正交渉

1882年から外務卿井上馨が条約改正交渉に取り組みます。彼は領事裁判権撤廃を求める国内世論の高まりもあり、治外法権撤廃を目標に条約改正をすすめます。

最初に教科書に掲載された風刺画「鹿鳴館と舞踏会」から条約改正失敗の原因を考えました。ただ、井上の条約改正交渉は欧米の同意を得たものの、国内の反対で失敗します。なぜ国内で反対論が強まったのか、その理由は鹿鳴館に象徴される欧化主義だけではありませんでした。それを井上が出した条件から考えました。

井上は領事裁判権を撤廃するかわりに西洋流の法典をつくり欧米諸国にあらかじめ見せること、外国人を被告とする裁判には外国人を裁判官とすることなどを提示します。外国人裁判官が日本の裁判所で裁判をすることで、条約改正が実現し欧米諸国と対等になったと言えるのでしょうか。

大隈重信の条約改正交渉

1888年から外務大臣の大隈重信が条約改正に取り組みます。大隈は外国人裁判官の任用を大審院に限って認めるという内容で交渉しました。井上の失敗の理由を考えたら、大隈が失敗するのもわかりますよね。

青木周蔵の条約改正交渉

1891年、青木周蔵が領事裁判権の撤廃でイギリスの同意を得て改正条約の調印寸前までこぎつけます。しかし、来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀県大津で津田三蔵巡査に傷つけられた事件の責任をとり、青木が外相を辞任したために交渉中断となりました。なお、この大津事件は大審院が司法権の独立を守った出来事としても知られています。

イギリスの態度が変わったのはなぜか

1890年以降、イギリスは条約改正に好意的な態度を見せるようになりました。1880年代と1890年代で何が違うのでしょう?ここまでに学習してきたことと結びつけて考えると、1889年の出来事が転換点であると言えるでしょう。

1889年、大日本帝国憲法が発布され、日本は憲法と議会によって政治をおこなう立憲国家となります。これにより欧米諸国は日本を自分たちと同じ法を備えた国として、対等なつきあいをしていくことになりました。

しかし、これはイギリスだけでなく他の欧米諸国にも言えることです。

イギリスが日本に好意的になったのは、もう一つの理由があります。

イギリスは1890年代に入りロシアがシベリア鉄道の建設を始めたことを、ロシアの東アジアでの勢力拡大ととらえて警戒します。ロシアの東アジアへの拡大を押さえるため、イギリスは日本に協力的になったのです。

こうして、1894年に日英通商航海条約が調印され領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復に成功しました。

今日はここまで!

最後に追加

中間テストでは「安政の五カ国条約は欧米に押し付けられて結ばされた不平等条約である」という見方だけではなく、幕府の交渉担当者が主体的に交渉を行った結果の条約であるという見方があることを問いました。授業でもこのことに触れました。

また、条約改正を実現した人物というと陸奥宗光をあげるが、青木周蔵の功績も大きいという話もしました。

このことをもう少し詳しく知りたい人に向けて、講談社のホームページの記事を紹介します。興味があったら読んでみてください。


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