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17 立憲政友会の成立

本時の問い「藩閥の実力者がなぜ政党を結成しようとしたのか」

第17回目の授業は、日清戦争に勝利してから1900年までの国内政治を学びます。本時の問いは「藩閥の実力者がなぜ政党を結成しようとしたのか」でした。

日清戦後経営

日本は日清戦争に勝利したもののロシア・フランス・ドイツの圧力により下関条約で手に入れた遼東半島を返還しました。まだまだ万国対峙・不羈独立には遠い状態。ですから、これからも軍備拡張や国力増強に努めなければいけません。そのため第2次伊藤博文内閣は戦後経営計画を立てます。この計画を実行するためには政府が立てた予算案を議会で通す必要があります。そのために、政府と政党との提携が始まったのです。第2次伊藤内閣は自由党、第2次松方内閣は進歩党と提携しました。

戦後経営を進めていくには財源が必要です。そこで政府は地租の増税によって財源を確保しようと考えました。さて、地租を増税することを政党は納得するのでしょうか。

初の政党内閣が成立

第3次伊藤内閣が提案する地租増徴に政党は反発します。当時の有権者は地租を納める地主が主でしたから政党としては増税を簡単に通すわけにはいきません。自由党と進歩党は合同し憲政党を結成します。衆議院に絶対多数をもつ政党が生まれたことで、第3次伊藤内閣は退陣します。それにかわって成立したのが第1次大隈重信内閣、日本で最初の政党内閣の成立です。

政党内閣という言葉の意味はここで確認しておきましょう。政党内閣は、政党のリーダーが首相を務めていること、国務大臣の多数が政党員であることです。大隈内閣は首相が大隈重信、内務大臣が板垣退助、その他の大臣は陸・海軍大臣を除くすべてが憲政党員ですから、政党内閣の条件を満たしています。

衆議院に最大勢力を持つ内閣ですから政治がうまくいったのかというと、そうではありません。憲政党は旧自由党と旧進歩党が合同した政党。両者の対立により内閣は崩壊してしまいました。

政党の影響力拡大を防ごうとした藩閥勢力

大隈内閣退陣の後、首相となったのは山県有朋です(第2次山県有朋内閣)。山県は憲政党の協力のもと地租増徴案を可決し、衆議院議員選挙法を改正して選挙権を拡大しました。憲政党内では欧米諸国の東アジア進出を警戒し、その対応のために軍備拡張をするのなら地租増徴もやむを得ないと考える人たちがいました。

憲政党との提携によって地租増徴を実現した山県は、文官任用令の改正や軍部大臣現役武官制を制定します。この政策は官僚や軍への政党の影響力拡大を防ぐためのものでした。

この頃、伊藤博文はみずから政党を率いて国家を発展させようと考えていました。その考えに共鳴した憲政党の星亨は、伊藤新党に参加することで政党政治の実現をめざし、憲政党を解党して伊藤を総裁とする立憲政友会に参加しました。

政界の二大勢力+1

立憲政友会の成立は衆議院に基盤を持つ有力政党で、この後国政を運営する力のある政党として発展していきます。これに反発した貴族院や官僚は山県有朋のもとに集まり、もともと山県の影響力の強かった陸軍を含めて山県閥という政治勢力が成立します。また、憲政党から分裂した憲政本党も衆議院では立憲政友会につぐ政党として存続します。

立憲政友会が成立した1900年以降の政治は、上に上げた政治勢力を意識しておかなければいけません。

元老

この頃、薩長の有力政治家で非公式に天皇を補佐する元老が次の首相を推薦するという、憲法にはないしくみが定着します。これまで政界の第一線にいた、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義などが元老となります。

今日はここまで!

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