見出し画像

明治時代の日本の洋画家・版画家 山本芳翠

本日は、明治時代の日本の洋画家、版画家である山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日)の誕生日です。

芳翠は、フランスに渡り、レオン・ジェロームに師事しました。また、黒田清輝(せいき)の白馬(はくば)会の創立に参加しました。

画像1

下記「目次」の「ギャラリー」の項目以下において、山本芳翠のいくつかの作品を鑑賞することができます。

山本芳翠

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「人物・来歴」として次のように記載されています。

人物・来歴

嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。


既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。渡航の世話をしてくれる人はなく困窮していると、初世五姓田芳柳の家の前に飾られていた横浜絵に生きているようだと感心してその門に入り、南画から転向し洋画を学んだ。当時、芳柳の次男・五姓田義松はチャールズ・ワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に触れる。1873年(明治6年)末には横浜から東京に移り、1875年(明治8年)頃には津田仙の学農舎に寄留し、肖像画で一家を成すまでになった。
1876年(明治9年)、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。翌年退学し、同年の第1回内国勧業博覧会に『勾当内侍月詠図』を出品、花紋賞を受賞し宮内庁買い上げの栄誉を受ける。1878年(明治11年)、かねてより知遇を得ていた津田仙と岸田吟香の斡旋で、パリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに留学する。当地のエコール・デ・ボザールでジェロームに絵画技法を学ぶ。芳翠は多芸で料理も上手く、当時の在仏日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったという。黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は黒田に画家になるよう強く勧め、法律家志望の黒田を洋画家へ転向させる。
1887年(明治20年)に帰国。その際当時日本海軍がフランスに注文し、日本に回航する予定だった巡洋艦・畝傍に渡欧中に制作した作品が積載された。しかし同艦は南シナ海で原因不明の消失を遂げ、300点とも400点とも言われる作品のすべてが失われてしまった。本人は無事帰国を果たし、版画家合田清とともに画塾「生巧館」を主宰。教え子に湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、北蓮蔵、広瀬勝平などがいる。1889年(明治22年)、松岡寿、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎らと明治美術会の設立にこぎつけた。芳翠はほぼ毎回、この展覧会に出品している。
しかし、本人にとっては黒田清輝までの繋ぎのつもりだったらしく、「今に黒田が帰ってくる。そうしたら日本の洋画も本物になるでだろう。黒田ならきっとうまく画壇を導いて率いていくよ。この生巧館なんかも黒田にあけ渡して、その塾にしてしまって、俺は万事黒田任せでやって貰うつもりだ。お天道さまが出たら、行燈は要らなくなるよ」と語っていた。1894年(明治27年)に黒田がフランスから帰国すると本当に画塾を黒田に譲り、黒田は画塾を「天真道場」と改めた。生巧館から開放された芳翠は、京都に仏事(仏教)博物館を建て、そこに油彩画による釈迦の生涯を展観して、その入場料で洋画家を志す若者を留学させようと志す。しかし、借金の保証人には死なれ詐欺に遇うなど全くの徒労に終わり、今度は大阪に豊臣秀吉像を建て自らの名を残そうとするが、これも実らなかった。東京に戻った芳翠は、日清戦争に従軍、翌1895年2月に帰国している。1896年(明治29年)明治美術会を脱退し、黒田が結成した白馬会にも参加している。晩年の1903年(明治36年)には、演劇や歌劇における洋風舞台装置の制作を行なった。この年、日本人による最初のオペラ公演となったグルック作曲「オルフェウス」(オルフェオとエウリディーチェ)の上演(ケーベル博士等の指導による)では背景画の一部を担当した。
1906年(明治39年)11月15日、自宅で脳溢血により死去した。満56歳没。法名は松光院芳仙翠翁居士。泉岳寺に葬られた。サイレント映画時代の剣戟映画、トーキーの現代劇で活動した俳優の山本礼三郎は次男である。

ギャラリー

『十二支』のうち『丑「牽牛星」』 1892年(法人蔵)

画像2

油彩・カンヴァス、七夕の織姫と彦星を描いたもの


西洋婦人像(東京芸術大学大学美術館)

画像3

油彩・カンヴァス、縦41.0cm×横32.9cm

この作品は、芳翠がフランス留学中に、「白い象の伝説」などで知られる女流作家のジュディット・ゴーティエを描いたもの、とされています。


『園田銈像』(園田孝吉夫人) 1885年 郡山市立美術館

画像4

油彩・カンヴァス

郡山市立美術館
https://www.city.koriyama.lg.jp/bijutsukan/index.html

https://www.kanko-koriyama.gr.jp/tourism/detail2-2-52.html

郡山市立美術館のインスタグラム
https://www.instagram.com/koriyama_artmuseum/

1分間で魅せる才媛 園田夫人
https://www.instagram.com/tv/CL6MmyqHImZ/?utm_source=ig_web_copy_link


『伊藤博文公肖像』 1903年 岐阜県美術館

画像5

油彩・カンヴァス、縦65.4cm×横50.3cm


『若い娘の肖像』 1880年頃 岐阜県美術館

画像6

油彩・カンヴァス


裸婦(岐阜県美術館)

画像9

油彩・カンヴァス、重要文化財


浦島図(岐阜県美術館)

画像7

油彩・カンヴァス、縦124cm×横170cm 第7回明治美術会展出品作


『月下の裸婦』 1882 - 1886年頃 愛知県美術館

画像8

油彩・カンヴァス、縦82.0cm×横120.0cm


灯を持つ乙女

画像10

岐阜県美術館寄託


自画像

画像11



干支「羊」

画像12


静物

画像13



磐梯山破裂之図 1888年

画像14


よろしければサポートをお願いいたします。サポートしていただきますと本当に励みになります。どうぞよろしくお願い申し上げます。